東京地方裁判所 昭和58年(合わ)164号 判決 1986年7月04日
本籍・住居《省略》
土工 加藤三郎
昭和二三年七月二五日生
右の者に対する爆発物取締罰則違反、傷害、現住建造物等放火被告事件について、当裁判所は、検察官佐竹靖幸出席のうえ審理し、次のとおり判決する。
主文
被告人を懲役一八年に処する。
未決勾留日数中八〇〇日を右刑に算入する。
理由
(犯行に至る経緯等)
一 被告人の身上、思想等
被告人は、本籍地において、天理教分教会長をしていた父仁市と母はの三男として出生し、地元の小・中学校を経て、昭和三九年四月岐阜県立加茂高等学校に入学したが、授業等が大学受験一辺倒であると感じて勉学の意欲を失い、文芸部の活動に熱を入れるなどし、第三学年のころ、雑誌に掲載されていた小田実の論文を読んだことがきっかけとなって、べ平連(「ベトナムに平和を!市民連合」)活動に興味を覚え、名古屋べ平連の定例デモに参加したり、ビラ配りなどをするようになった。
被告人は、昭和四二年三月高校卒業後、地元で土工等として稼働したのち、上京して飯場仕事をしたり、べ平連活動に加わったりしたが、昭和四三年暮ころには、岐阜県美濃加茂市に戻り、工員や土工をする傍ら、自ら「いなか町べ平連」を名乗って反戦を求めるビラ配りなどを始め、翌年四月ころには、高校の二年後輩である太田早苗ら数名の者とともに「ベトナムに平和を美濃加茂市民連合」(通称「みのかもべ平連」)を結成し、その後、ナイキ基地設置反対の活動や岐阜、名古屋の集会・デモへの参加、ビラ配りなどの反戦活動をしたり、成田空港反対集会に参加して兇器準備集合罪で逮捕されたりし、昭和四六年一一月ころには、右みのかもべ平連を「コンミューンみのかも」と改称して、岐阜市のデモで知り合い同じ現場で土工をするなどして親交のあった大森勝久らも交えて、前同様の反戦活動や学習会などを行っていた。この間被告人は、昭和四四年ころから、ライヒ著の「性と文化の革命」を愛読し、その学習会を右の仲間と開くなどして、その思想に傾倒し、新左翼による暴力活動の過激化などに強い不信感を抱くとともに、これとは異なった文化的、平和的な革命、人間の内側からの変革を志向するようになっていった。
そして、被告人は、土工として在日朝鮮人とともに働くうち、彼らの生活程度の低さや彼らが朝鮮人であることからくる種々の問題、あるいは、彼らが戦時中日本に強制連行されてきたことなどを見聞して、在日朝鮮人差別の問題等に強い関心を抱くようになり、出入国管理制度に対する反対闘争や、在日朝鮮人である宋斗会の起した日本国籍確認等の裁判の支援活動、その他ひろく在日朝鮮人に対する差別撤廃を求める運動などにかかわっていた。
また、被告人は、昭和四六年暮ころから、太田竜著「辺境最深部に向って退却せよ!」や新谷行著「アイヌ民族抵抗史」などを読むことにより、アイヌ民族に対する侵略や差別の問題に強い関心を抱くとともに、太田竜の最底辺の同胞とともに生き原始共産制の復興を目指せとの主張に触発され、昭和四七年秋ころから、大阪の釜ヶ崎、名古屋の笹島、東京の山谷とドヤ街を渡り歩いて、そこに住む人達と接触し、また、翌年五月ころには、北海道静内郡静内町に赴いて、アイヌとともに働いたりしてみたものの、太田竜らの主張の実践に困難さを感じ、同年八月中旬ころ、とりあえず運動資金を得るため、北海道に自生する麻を乾燥させたうえ、大麻として売却すべくこれを所持して名古屋へ赴いたところ、同年九月同市内で大麻取締法違反の罪で逮捕され、同年一一月同罪で懲役一年(執行猶予三年)に処せられるなどしたため、いったん実家へ戻った。
被告人は、このような活動や種々の学習を重ねるうち、次第に、日本国家と日本人が、過去から現在に至るまで、朝鮮、中国やその他アジアの国々を武力や経済力等で侵略し、植民地化しており、また、国内的にみれば、大和朝廷の成立以降の歴史は、日本国家によるアイヌ民族等の原住民に対する侵略と収奪の歴史であるとの認識を持つようになり、このような日本国家と日本人の持つ侵略性・差別性と闘うことにより、侵略者・差別者である日本人としての自己を内面から変革していかねばならないとの考えを強め、昭和四九年春ころ、在日朝鮮人等に対する国民健康保険の差別的取扱を批判するために、岐阜県不破郡関ヶ原町で、また、同年八月には、アイヌに対する日本国家による侵略を糾弾するために、北海道静内郡静内町(同町内の公園にある「北辺開拓の礎」のレリーフをペンキで汚し、ハンマーでたたいて損壊した。)及び札幌市(前記大森と共に、大通公園にある黒田清隆像の台座に「アイヌモシリの強奪者黒田よ地獄へ落ちろ」と、ホーレス・ケプロン像の台座に「アイヌモシリ独立万歳」とそれぞれペンキで落書した。)で、それぞれペンキ等による汚損、破壊を行った。
更に、被告人は、右のような日本人の思想、意識をより根本的に変えていく必要があり、そのためには、古来日本人の精神的支柱となってきた天皇制を中心とする伝統的権威や信仰の対象を踏みにじってその虚構性を暴き、日本人の意識をそのような権威、民族性等から解放する闘いがなされねばならないとの考えに至ったが、そのような折、昭和四九年八月から、東アジア反日武装戦線によるいわゆる連続企業爆破事件が相次いで起り、被告人は、同組織の作成した爆弾教本「腹腹時計」(写し)を入手して、彼らの思想が自己の考え方と共通性を有していることに共感を覚え、日本人の罪深さや自己の無力さを痛感していたこともあって、それまで否定的に考えていた武装闘争を自らの活動に導入する必要性があるのではないかとも考えるようになったが、直ちにこれに踏み切ることには躊躇を覚えていた。
そして、被告人は、昭和五〇年二月ころ、武装闘争を実行することに戸惑いながらも、いずれこれを実行に移すかもしれないと考えて、美濃加茂市を離れて釜ヶ崎へ移り、同年五月には、桓武天皇による蝦夷征伐の際の征夷大将軍坂上田村麻呂とアイヌの土地を勝手に皇室の財産とした明治天皇とを批判することにより、日本国家の歴史が侵略の歴史であることを明らかにするとともに、天皇の権威をも失墜させるべく、坂上田村麻呂の墓及び明治天皇陵をペンキで汚損したり落書をしたりしたうえ、これを新聞社に知らせたが全く報道されなかった。
このため、被告人は、これを権力による黙殺と受け止めて、屈辱感を覚えていたところ、まもなく東アジア反日武装戦線のメンバーが次々と逮捕され、その一人である斉藤和が自殺し、また、同年六月には、かつて釜ヶ崎で語り合い尊敬の念を抱いていた船本洲治が愛隣地区爆破事件で指名手配を受けて逃走中、皇太子の沖縄訪問に抗議して自殺したことを知り、彼らの闘いが命懸けのものであることに強い衝撃を受けたことなどから、自らも黙殺されることのないもっと力強い闘いを行わねばならないと考え、ここにおいて、放火等の破壊的な活動を行うことを決意し、同年七月に北海道警察本部爆破事件が起るに至って、その決意を更に強固なものとしていった。
二 平安神宮放火事件
被告人は、昭和五〇年七月ころから平安神宮の焼き打ちを考え始めたのであるが、これは、平安神宮の祭神である桓武天皇が蝦夷征伐という名の侵略を行い、大和国家の勢力を大幅に拡張して天皇制国家の基礎を築いた者であるから、これを祭る平安神宮の本殿等を焼失させることによりその権威を踏みにじるとともに、声明文等により天皇制日本国家の建国自体の侵略性や天皇信仰の虚構性を明らかにし、平安神宮に参拝する日本人をもあわせて批判しようという認識や意図によるものであった。
そして、被告人は、同年一二月ころには、翌年一月初めに平安神宮本殿に放火することを決意し、昭和五一年一月一日から同月四日までの間に、昼二回、夜一回平安神宮及びその周辺を下見して、放火時刻、侵入経路及び放火地点等を定め、同月五日夜、ガソリン一〇リットル入りのポリ容器をバッグに詰めて釜ヶ崎を出発し、途中で時間をつぶすなどしてから、同月六日午前三時ころ、丸太町通りに面した平安神宮北側通用門の扉を乗り越えて内部に侵入したうえ、判示第一のとおり放火し、平安神宮の東西両本殿、内拝殿等を焼失せしめた。
被告人は、同日夕刻、平安神宮近くの京都会館と京都市立美術館に「世界赤軍日本人部隊」と名乗って電話をかけ、平安神宮放火の犯行声明をしたほか、建国記念日に声明文が公表されることを企図して、同年二月初めころ片仮名のテープライターで打ったテープを台紙に貼って、「セカイセキグンニホンジンブタイヤミノツチグモ」名義の声明文を作成し、同月一〇日に、これを京都新聞社及び朝日新聞京都支局に郵送したが、右声明文は、桓武天皇による蝦夷征伐と天皇制日本国家に対する批判、平安神宮焼き打ち闘争が天皇制日本国家及び日本人に対する武装闘争の幕開けであること及び建国記念日に対する批判等を内容とするものであった。
三 爆弾闘争の決意
しかしながら、右犯行声明の電話のことは簡略にしか報道されず、声明文に至っては全く発表されなかったことから、これを権力やマスコミ等による黙殺ととらえた被告人は、強い怒りや深い屈辱感を覚えるとともに、今度こそ決して黙殺されることのない闘いとして、爆弾を使用することを決意し、同年二月下旬ころ、爆弾製造の便宜を考えて、釜ヶ崎のドヤから近くのアパートに移り、爆弾材料や製造器具等を入手するなどして準備を進めていたが、同年三月に起った北海道庁爆破事件により、爆弾闘争敢行の意思を更に強めていった。
ところが、被告人は、爆弾材料等を入手したものの、爆弾闘争に対する精神的重圧や緊張感が予想以上のものであり、また、同年六月末ころ警察官らしい人物の尾行をうけ、北海道庁爆破事件の関係者として捜査の手が延び、自己の計画が発覚することを危惧したことなどから、爆弾闘争を一時見合わせることとし、爆弾の製造に用いる除草剤、硫黄、乳鉢等を、当時爆弾闘争の拠点の一つとみられていた釜ヶ崎から岐阜県可児郡可児町(現在の可児市。)等の軍需工場跡地である隧道に隠そうとして、同年七月二日、同所付近に赴いたところ、警察官の職務質問を受け、派出所に連行された際、右所持品を置いたまま逃走したが、右職務質問で自己の本名を告げていたことから、爆発物取締罰則違反等の容疑で全国に指名手配されることになった(以下、可児町事件という。)。その後、同年八月に前記大森勝久が逮捕され、北海道庁爆破事件の犯人として起訴されたが、被告人は、右可児町事件が端緒となって被告人と活動を共にしたことのあった大森に容疑がかかったものと深刻に受け止め、同年秋ころには、右大森に対する償いと既に自らも指名手配されて合法的活動が自由にできないことなどから、爆弾闘争を行っていくよりほかにとるべき道はないと結論付けた。
そして、被告人は、天皇制を支えてきた神社、仏閣のほか、企業の海外進出を原住民等に対する侵略ととらえて、これらをも糾弾すべきものと考え、そのころ既に、梨木神社、東本願寺、東京大学、明治神宮、三井アルミニウム工業株式会社、東急観光株式会社などを爆弾闘争の対象として念頭に置くようになった。なお、被告人は、可児町事件の数日後、釜ヶ崎を離れ、当時宇都宮に住んでいた太田早苗のもとを訪れたりした後、東京で飯場暮しをし、同年九月初旬ころ、東京都板橋区内の玉村荘に偽名を使って入居したが、そのアパートの造りが爆弾製造には不向きであったため、同年一一月下旬ころ、同区内の寿荘に「杉本広治」名義で転居し、ここで本格的に爆弾の製造等に取り組むこととした。
四 梨木神社爆破事件
被告人は、昭和五一年一二月初旬ころ、爆弾闘争の手始めとして、まず、梨木神社に対してこれを行うことを決意したが、それは、かつて平安神宮下見の際併せて見分したところ、同神社は人の出入が少ないうえ、警備も手薄で爆弾を設置しやすく、最初に爆破するには適当であると思えたことのほか、前記のとおり、平安神宮焼き打ちの際、声明文が黙殺され、自己の意図する闘争目的が社会に公表されなかったため、再度天皇制糾弾にふさわしい対象を選び、同名義の声明文を出すことにより、平安神宮焼き打ちの意義をも併せて社会に知らしめようと考えていたところ、アイヌモシリ、琉球、朝鮮等への侵略や国内農民、一部宗教に対する弾圧などを行った明治政府の時の太政大臣三條実美を祭神とする梨木神社を爆破して糾弾すれば、平安神宮焼き打ち闘争との関連性をも含めて、自己の闘争目的を明らかにすることができると考えたからであった。
そして、被告人は、前記「腹腹時計」や「薔薇の詩」等を参考にして、同月下旬ころから、前記寿荘において、爆薬の準備や起爆装置、時限装置などの作製をした後、釜ヶ崎の簡易宿泊所にこれら持ち込み、同所で同月三一日までの間に、あらかじめ盗んでおいた消火器にこれら装置を組み立てて爆薬等とともに詰め込むなどして爆弾を完成させたほか、爆破の際に同神社建物を炎上させるためのガソリン約二リットル入りのガソリンびんをも用意し、同月三一日の昼と夜の二回にわたり、梨木神社及びその周辺を下見して、爆弾等の設置時刻、設置場所及び侵入経路等を定めたうえ、昭和五二年一月一日午後七時三〇分過ぎころ、同神社本殿裏の柵を破るなどして内部に侵入し、判示第二のとおり梨木神社爆破の犯行に及んだ。
被告人は、同月二日から釜ヶ崎で、「やみのつちぐもうきあなひめのこどもたち」名義の声明文の作成に取り組んだが、「闇の土蜘蛛」の構成員が複数であると見せかけるため、平安神宮の声明文と異なり、平仮名のテープライターを使用し、言葉遣いも変えるなどし、これを同月五日ころ朝日新聞京都支局宛に郵送したが、その内容は、三條実美が搾取と抑圧の天皇制日本国家建設やアイヌの生活していた土地等に対する侵略などに主導的役割を果したとして、これを批判するものであった。
五 東急観光爆破事件
被告人は、昭和五二年二月初旬ころ、東本願寺を爆破することを計画し、同月中旬ころ、前記寿荘において、爆薬の準備や起爆装置、時限装置などを作製し、同月一七日、同寺の下見をした際、同所に爆弾製造用のペンチやテスター等を置き忘れたため、翌日、これらを受領に行ったが、そのとき領収証に氏名は偽名を用いたものの、自己の指印を押捺してきたことから、予定どおり同寺に爆弾を仕掛けると、右領収証などから自己の犯行が発覚することをおそれ、一時これを見合わせることにし、かねて攻撃対象の一つと考えていた東急観光株式会社の爆破に切り替えることとした。同社を選んだのは、東急観光等の旅行会社の斡旋する韓国、台湾、フィリピンその他アジア諸国への観光旅行は、いわゆる売春旅行であって、これらの国々に対する性的侵略にほかならないから、その中心的業者である東急観光を爆破することにより、これを糾弾しようという考えからであった。
そして、被告人は、そのころ、釜ヶ崎の簡易宿泊所で、前記東本願寺爆破用に準備した爆弾材料、装置等をあらかじめ盗んでおいた消火器に詰め込むなどして組み立てて爆弾を完成させたが、その間の同月一八日、東急観光株式会社関西支社と同社大阪海外旅行センターを下見し、後者が海外旅行を担当していると考えて、これを爆破の対象に選び、翌一九日午前中にも右大阪海外旅行センターやその周辺を下見して、爆弾設置時刻、設置場所、時限装置をセットする場所を定めたうえ、同月二一日、判示第三の一のとおり東急観光爆破の犯行に及んだ。被告人は、右犯行後、声明文の作成にとりかかったが、自己の思想と犯行との結びつきを的確に表現することができなかったことや、新聞等に売春観光反対闘争だとする記事が載ったことなどから、結局、本件では声明文を出さなかった。
六 東大法文一号館爆破事件
被告人は、昭和五二年二月末から三月初めころ、東京大学の爆破を同年五月以降に行うことを決意したが、その動機は、東大が建学以来日本の政、官、財界に多数の指導者を輩出して、日本国家の侵略、植民地支配及び搾取を推し進めるとともに、思想的、学問的権威等によりこれを支援してきたものであり、また、同大学農学部が北海道内に広大な演習林を所有することにより、アイヌの土地を侵略しているとの認識から、このような東大のあり方を糾弾しようという考えによるものであり、なかでも同大学法学部は、右の象徴的存在であると同時に、利己的で侵略的な人間を作り出している歪んだ受験教育の元凶であると考え、また、前記宋斗会の裁判支援活動を通じて、不信感を抱いた法や裁判への批判の意味をも表明しようという考えなどによるものであった。
そこで、被告人は、同年四月中旬から下旬にかけて、前記寿荘において爆弾を製造したが、本件爆弾は東大のもつ強大な権威に対抗するため、これまでの事件に使用したものよりも大型の消火器を盗んできてこれを容器として使用し、爆薬量も増やした。そして、被告人は、そのころ三回にわたり東大構内を下見して、東大法文一号館内に爆弾を設置することとし、また、授業時間を確認するなどして、爆弾設置時刻、時限装置をセットする場所や逃走経路を定めたうえ、同年五月二日、判示第三の二のとおり東大爆破の犯行に及んだ。
被告人は、爆破対象が法学部の建物であったことから、北海道の演習林問題との関連性を明確にすべく、犯行後間もなく、同大学に電話して、「東大はアイヌモシリを侵略している。北海道の演習林を返還せよ。」などと通告したほか、爆弾の製造や下見と並行して、本の活字を切り取ってコピーしたうえ、便箋に貼りつけるなどしてあらかじめ作成しておいた声明文四通のうち、一通を爆弾とともに現場に置き、残りは同日夕刻、朝日、毎日、読売の各新聞社宛に郵送したが、その内容は、「世界革命戦線・大地の豚」を名乗り、東大がアイヌモシリに対する侵略、支配等の精神的支柱となっているとして、これを批判するとともに、前記演習林の返還を求めるなどの趣旨のものであった。しかし、声明文に関する報道が右演習林問題に触れていなかったことから、改めてこれを明らかにするため、演習林をアイヌに返還するよう求めるとともに、この要求が一週間以内に受け入れられない場合は、更に闘争を行う旨の書面を太田早苗に作成させたうえ、同年六月六日ころ東大宛郵送せしめた。
七 三井アルミ社長宅爆破事件
次いで、被告人は、三井アルミニウム工業株式会社社長川口勲宅を爆破の対象に考えたのであるが、その経緯は、同社は、昭和四八年ころからブラジル政府の要請を受け、同国の行っているアマゾン川流域開発事業の一環として、同社を中心とするアルミニウム精錬の合弁会社(日本アマゾンアルミ株式会社)を設立するなどしてきたが、右アマゾン川の開発事業は、その流域に住むインディオを絶滅に追い込むものであり、これに参加する日本企業もこのようなインディオ絶滅・アマゾン侵略に加担するものであるから、主要な参加企業である右三井アルミを糾弾する必要があるものと考え、自らあるいは太田早苗をして同社や前記合弁会社等の内容、役員の氏名等を調べ、三井アルミ本社や社長宅の下見などを行った結果、昭和五二年六月初めころ、三井アルミ及び日本アマゾンアルミの社長をしている川口勲の邸宅を爆破するのが適当と考えるに至った。
そこで、被告人は、東大の爆破事件とは別のグループによる犯行と見せかけようとの意図とアルミニウム会社に対する糾弾の趣旨等から、爆弾の容器にはあらかじめ購入しておいたアルミニウム製圧力鍋を使用し、同月中旬ころから一週間ないし一〇日間くらいかけて、前記寿荘において爆弾を製造したのであるが、同年五月中旬から六月二〇日過ぎころまでに、右川口方やその周辺を四回くらい下見して、爆弾設置時刻、設置場所、時限装置をセットする場所、逃走経路等を定めたうえ、同月三〇日、判示第三の三のとおり三井アルミ社長宅爆破の犯行に及んだ。
被告人は、同月中旬ころから、東大爆破事件のときと同様の方法で声明文の作成に取りかかり、同月二〇日過ぎころ完成させてこれを封筒に入れ、インディオの血を引くギタリスト「アタウアルパ・ユパンキ」のレコードジャケットにはさんで、同月二八日ころ、東京駅のコインロッカーに入れ、右犯行後、同月三〇日、朝日新聞社に電話して、右声明文の存在を知らせたが、右声明文は、タスマニア島の原住民絶滅の年度を表わし、かつ、「大地の豚」とは別グループによる犯行とみせかける意図で、「世界革命反日戦線・タスマニア一八七六」という名義とし、三井アルミ川口社長がアマゾンアルミ計画から手をひくべきことを主張し、また、日本国家と日本人によるアマゾンのインディオ侵略を批判する内容であった。また、その後被告人は、アマゾン探険記を連載した読売新聞社とアマゾン探険を行っていた人物にも、右声明文とほぼ同旨の警告文を郵送した。
八 神社本庁爆破事件
被告人は、昭和五二年春ころから、宗教法人神社本庁を爆破の対象にしようと考え始めていたところ、同年五、六月ころから、太田早苗が心身ともに疲蔽してきたため、一時爆弾闘争を見合わせてきたが、同年九月末ころ、再びこれを始めようと考え、同年一〇月初めころ、東京都渋谷区にある神社本庁と京都にある東本願寺とを相次いで爆破し、関東、関西の各グループが呼応して蜂起したものと見せかけようと企図した。そして、被告人が神社本庁を爆破対象に選んだのは、昭和二七年二月二日、神社神道の宣布、祭祀の執行その他神社の興隆を図り、神宮及び神社を包括するための宗教法人として設立された神社本庁が、近代天皇制日本国家によるアジア諸国及び北海道等国内外の侵略、支配等の宗教的基礎であった国家神道の復権を主張し、また、天皇制維持のための活動を行っているとの認識の下に、その侵略者としての責任を追及し、天皇制信仰の下で前記侵略等を正当化している日本国家と日本人を糾弾しようとの考えからであった。
そこで、被告人は、昭和五二年一〇月一〇日ころから約一〇日間かけて、前記寿荘において他から盗んできた消火器に爆薬を詰め込むなどして爆弾を製造したほか、その間二回くらい神社本庁本館及びその周辺を下見し、爆弾設置時刻、設置場所、時限装置をセットする場所等を定めたうえ、同月二七日、判示第三の四のとおり神社本庁爆破の犯行に及んだ。
被告人は、同月初めころから、東大爆破事件とほぼ同様の方法で声明文の作成に取りかかり、同月二六日ころ完成させて、同月二八日、毎日新聞、人民新聞、日刊ゲンダイ等の各社に郵送したが、右声明文は、「世界革命反日戦線『大地のブタ』」名義で、天皇制日本国家の建国と天皇信仰・選民思想を批判し、それに基づくアジアへの侵略戦争を行った天皇及び神社本庁その他の天皇支持者たちを亡ぼすための闘いを繰り広げていくことや、アイヌ建国闘争、東アジア反日武装戦線の闘争、日本赤軍のダッカ闘争等を支持することなどを内容とするものであった。
九 東本願寺爆破事件
被告人は、前記のとおり、昭和五二年二月中旬ころ、東本願寺(真宗大谷派本山本願寺)の爆破等を計画しながら、その遂行を一時断念していたが、同年一〇月初めころ、前記神社本庁爆破に引き続いてこれを行うことを決意した。同寺を爆破の対象としたのは、仏教は神社神道とともに、天皇制支配を宗教的に基礎づけ精神的に支えてきたものであるが、なかでも東本願寺はその中心的存在であり、明治政府の行った北海道開拓の際には、多額の資金を出し、道路を建設するなどしてアイヌへの侵略に加担し、国内被差別部落民の多数を信者として収奪を行い、戦争中は軍部と結託して朝鮮、中国等への侵略に加担してきたうえ、天皇制日本国家と癒着し、教団内部でも金脈問題等で紛争が絶えないなど堕落、腐敗しているとの認識に基づき、これを糾弾しようという考えによるものであった。
そして、被告人は、同月中旬ころから、前記寿荘において、神社本庁爆破に使用する爆弾の製造と並行して、爆薬の準備や起爆装置、時限装置などを作製するとともに、爆破の際に東本願寺の建物を炎上させることを企て、ガソリン一〇リットルとエンジンオイル四リットルを混合したものを、二つのポリタンクに入れて準備した後、同月二九日ころ釜ヶ崎の簡易宿泊所にこれを持ち込み、同所で同月三一日ころまでの間に、他から盗んできた消火器に右爆弾材料を組み立てて詰め込むなどして爆弾を完成させる一方、同月三〇日から同年一一月一日の間に、東本願寺やその周辺及び京都タワーホテルを下見し、京都タワーホテル内の便所で時限装置をセットすることや爆弾設置時刻等を定めたうえ、同月二日、判示第三の五のとおり東本願寺爆破の犯行に及んだ。
被告人は、同年一〇月二〇日過ぎころ、前記寿荘で、片仮名のテープライターを使用して打ったテープを便箋に貼って声明文を作成し、これを一一月三日午後六時ころ、京都市北区大宮榿ノ木町の御園橋西詰の橋下に置いた後、共同通信社や京都新聞社等に電話して右声明文の所在を通告したが、右声明文は、「セカイセキグンニホンジンブタイヤミノツチグモ」名義であって、東本願寺爆破が天皇制日本国家とそれを支持してきたすべての宗教及び東本願寺のアイヌモシリへの侵略等に対する批判を目的として行われたとする内容のものであった。
一〇 寿荘誤爆事件
太田早苗は、前記のとおり、みのかもべ平連やコンミューンみのかものメンバーとして被告人らと活動し、朝鮮人との結婚問題などから、一時美濃加茂市を離れ右活動から遠ざかったものの、昭和四九年ころ、再び美濃加茂市に戻り、被告人らとともに在日朝鮮人の差別問題等に取り組むようになったが、そのころ、太田竜の著書等を読むなどして、被告人の考え方に同調するようになり、同年八月ころには、岐阜市内の岐阜公園の中国人殉難者の碑をペンキで汚損するなどする一方、被告人と次第に親密な間柄となっていった。太田は、昭和五〇年二月ころ被告人が美濃加茂から釜ヶ崎に移ってからも連絡を取り合っていたが、その後自らも美濃加茂を離れ、東京、沖縄、宇都宮等を転々とし、昭和五一年夏ころからは、可児町事件に関連して、自らも被告人の愛人として捜査の対象とされていたため、偽名を用いて埼玉県内や都内のアパートに移り住むようになった。その間、太田は、被告人の平安神宮放火や一連の爆破事件について、被告人から事前または事後にその犯行内容等を打ち明けられ、また、爆弾材料の購入や声明文の作成に協力するなどして、これを支援してきた。
しかしながら、太田は、潜伏生活を送りながら、被告人の一連の爆弾闘争にかかわっていくことなどが心理的重圧となって、昭和五二年五、六月ころから体調をくずし、同年夏ころからは、神経性胃炎にかかるなどして健康を害し、精神的にも疲蔽して無気力な状態に陥り、同年九月ころには、埼玉県上福岡市内で万引をして検挙され、警察に指紋を採取されるような始末であった。太田のこのような状態を見た被告人は、考えあぐねたあげく、一緒に爆弾闘争を行うことにより、同女の気持を奮い立たせ、心身の健康を回復させるよりほかはないと考え、同年一二月初めころ、後記明治神宮に対する爆弾闘争の計画を打ち明け、ともにこれを遂行することとした。
被告人は、明治天皇がアイヌモシリ、朝鮮、沖縄等を侵略し、植民地支配した最高責任者であり、同天皇を祭神とする明治神宮やここに参拝する日本人もこれに同調するものであるとの考えから、これを糾弾するために、初詣客で賑わう同神宮拝殿付近の境内において、糞尿爆弾を爆発させて、明治神宮内の聖域や参拝客の晴着を糞尿で汚すことなどを企てた。そして、被告人は、太田とともに同月二四日ころから同月三〇日ころまでの間に、前記寿荘において、判示第四の一のとおりスプレー缶を容器とした爆弾を製造し、これと糞尿を入れたポリ容器とをバッグに入れて固定したうえ、これを明治神宮に設置すべく、同月三一日夜明治神宮に赴き、同日午後一一時三〇分ころ、同神宮内の便所で、時限装置を三〇分後にセットしたものの、参拝客が多く、爆弾設置後雑踏のため身体の衰弱している太田と二人では逃走が困難であると判断し、その場は爆弾の設置を断念して前記寿荘に戻ったが、被告人は、後刻再び明治神宮に右爆弾を設置して爆発させようと考え、昭和五三年一月一日午後五時過ぎころ、前記寿荘自室で爆弾を点検中、誤って中間スイッチを入れたまま結線して通電させたため、右爆弾が爆発した。
一一 犯行後の情況
被告人は、昭和五三年一月一日、寿荘で爆弾を誤爆させた後、前記太田とともにいったん同女の居住していた練馬区石神井の茜荘に立寄り、書類等を焼却したものの、右寿荘での爆弾製造や所持の事実等で全国に指名手配されたため、知人を頼るなどして、葛飾、京都、奄美大島、沖縄、大阪、岡山、静岡、名古屋等を逃げ回り、金に困って事務所に忍び込んだり、駐車中の車内や洞穴内に宿泊したり、山の中で野宿したりしたこともあったが、同年二月末ころからは知人宅等に落ちつくようになった。この間、太田の健康状態は全く回復の兆しを見せないままであったが、被告人は、同年四月ころ、ライヒの著作を読み直したのがきっかけとなって、同女に対して精神療法を試みたところ、同女の健康がみるみる回復してきたため、同女と別行動をとるようになった同年六月以降も、ライヒの考え方に傾倒し、その著作を読み進み研究するなどしていくうちに、被告人がなくそうと考えている侵略や差別等は、数千年来日本人に受け継がれてきた個々人の抑圧され歪んだ権威主義的な性格構造に由来しているのであって、このような性格構造そのものを改善することなくして、現状の根本的な変革はありえないと考えるに至った。そして、これまで自己が行ってきた反日思想に基づく武装闘争は、日本人による侵略や差別等を単なる現象面からのみ批判していたものに過ぎず、根本的な問題の解決にはならないと考えるようになり、同年暮から翌五四年初めころには、自己の反日武装闘争は誤りであったと認識するようになった。
そこで、被告人は、人間の性格構造を変えていくための活動を進めていこうと考え、ライヒ以外の精神療法、健康法等も学びこれを実験していたが、被告人が施す精神療法等に対して相手方が拒絶反応を示したり、かえって人間関係を悪化させてしまうようなこともあり、また、同年夏ころ自殺を図った太田と再会し、それまでに学んだ種々の方法で同女を立ち直らせようとしたものの、以前のときのような変化が見られなかったことなどから、次第に無力感に苛まれるようになっていった。そのような折、被告人は、昭和五五年六月ころ、バグワン・シュリ・ラジニーシの対話録「生命の歓喜」を読んで、同人の唱える瞑想によって自分自身の内面に目を向け、その内にある愛に目覚め、自己の本当の姿で生きよとの教えに深い感銘を受け、差別や侵略等の社会問題は、人間同志が戦うのではなく、各人の内奥にある愛をよみがえらせ、愛にあふれた存在が増えていく以外に根本的な解決はないと思い至り、昭和五六年五月ころには、同人の弟子(サニアシン)となって「スワミ・プレム・デバム」名を名乗り、昭和五五年暮ころから、都内の瞑想センターで、ラジニーシズムの活動を住み込みで手伝ったほか、昭和五七年七月ころ以降は、京都の瞑想センターで同様の仕事をしていたが、昭和五八年五月一六日、京都市内の路上で、前記寿荘誤爆事件により逮捕された。
(罪となるべき事実)
被告人は、
第一 前記二記載のとおりの経緯、動機から、平安神宮の本殿等を焼燬しようと決意し、昭和五一年一月六日午前三時過ぎころ、京都市左京区岡崎西天王町九七番地宗教法人平安神宮(代表役員三條實春)において、宿直員等が現住し、東西両本殿、祝詞殿、内拝殿、齊館、社務所等が東西各内外廻廊、東西各歩廊等により接続している構造の平安神宮社殿の一部である祭具庫西側板壁付近にガソリン約一〇リットルを散布したうえ、所携のガスライターでこれに点火して火を放ち、右祭具庫及びこれに接続する西翼舎、内拝殿、祝詞殿、東西両本殿等に燃え移らせて、その全部または一部を炎上させ、もって、人の現住する建造物(焼燬面積約五一二平方メートル)を焼燬し、
第二 前記四記載のとおりの経緯、動機から、治安を妨げかつ人の財産を害する目的をもって、昭和五二年一月一日午後八時過ぎころ、京都市上京区寺町通広小路上る染殿町六八〇番地宗教法人梨木神社(代表役員代務者稲原照)本殿外陣南東隅付近に、塩素酸塩系爆薬約〇・八キログラムを消火器に詰めた時限式手製爆弾一個を、時限装置を作動させたうえ、ガソリン約二リットル入りのガラスびんと並べて設置して、同日午後八時四〇分過ぎころ、これを爆発させ、もって、爆発物を使用し、
第三 前記五ないし九記載のとおりの経緯、動機から、治安を妨げかつ人の身体財産を害する目的をもって、
一 昭和五二年二月二一日午前一〇時三〇分過ぎころ、大阪市北区堂島中二丁目四七番地(現大阪市北区堂島二丁目一番二号)中村屋ビル二階東急観光株式会社大阪海外旅行センター・同社関西仕入センター事務室前フロア(踊り場兼エレベーターホール)北東隅付近に、前記第二と同様の(但し、爆薬量は約一・五ないし一・六キログラム)時限式手製爆弾一個を、時限装置を作動させたうえ設置して、同日午前一〇時三七分ころ、これを爆発させ、もって、爆発物を使用するとともに、右爆発により、別紙受傷者一覧表(一)記載のとおり、右関西仕入センターにいた池本祐一(当時三四歳)ほか五名に対し、加療約五日間から約一〇日間を要する頭部・左手切創等の各傷害をそれぞれ負わせ、
二 同年五月二日午後二時過ぎころ、東京都文京区本郷七丁目三番一号東京大学法文一号館の三階法学部第二六番教室前踊り場北東隅付近に、前記第二と同様の(但し、爆薬量は約二・五ないし三キログラム)時限式手製爆弾一個を、時限装置を作動させたうえ設置して、同日午後二時一〇分ころ、これを爆発させ、もって、爆発物を使用するとともに、右爆発により、右教室で受講中の大学生本田実(当時二三歳)に対し、全治約一週間を要する頭部外傷、背部打撲等の傷害を負わせ、
三 同年六月三〇日午前二時過ぎころ、同世田谷区代沢五丁目四番一五号川口勲方居宅の西側門柱付近に、塩素酸塩系爆薬約一・二ないし一・五キログラムをアルミニウム製圧力鍋に詰めた時限式手製爆弾一個を、時限装置を作動させたうえ設置して、同日午前二時五九分ころ、これを爆発させ、もって、爆発物を使用し、
四 同年一〇月二七日午前一〇時四〇分過ぎころ、同渋谷区東四丁目一二番二六号宗教法人神社本庁(代表役員篠田康雄)本館一階財務部室前ロビーに、前記第二と同様の(但し、爆薬量は約一・六キログラム)時限式手製爆弾一個を、時限装置を作動させたうえ設置して、同日午前一〇時五五分ころ、これを爆発させ、もって、爆発物を使用するとともに、右爆発により、別紙受傷者一覧表(二)記載のとおり、右財務部室で執務中の塚本百合子(当時五二歳)ほか四名に対し、加療約三日間から約二週間を要する左側頭頂部挫傷等の各傷害をそれぞれ負わせ、
五 同年一一月二日午後四時ころ、京都市下京区烏丸通七条上る常葉町七五四番地宗教法人真宗大谷派本山本願寺(通称東本願寺、代表役員大谷光暢)大師堂内に、前記第二と同様の(但し、爆薬量は約一・五ないし一・六キログラム)時限式手製爆弾一個を、時限装置を作動させたうえ、ガソリン等の入ったポリタンク二個(合計約一四リットル)とともに設置して、同日午後四時三分ころ、これを爆発させ、もって、爆発物を使用し、
第四 前記一〇記載のとおりの経緯、動機から、太田早苗と共謀のうえ、治安を妨げかつ人の身体財産を害する目的をもって、
一 昭和五二年一二月二四日ころから同月三〇日ころまでの間、東京都板橋区桜川三丁目八番一四号寿荘一号室被告人方居室において、被告人が塩素酸ナトリウムを主成分とする除草剤約七五パーセント、桐灰約一五パーセント、硫黄約一〇パーセントの割合(重量比)で混合して作製した爆薬約一〇〇グラムを、太田と共同してスプレー式ガラスクリーナー缶(三一〇CC入り)に詰め、また、被告人が携帯用タイマー(ぜんまい式)、乾電池、ガス点火用ヒーター等を用いて作製した起爆装置を右缶体内に組み入れるなどして、時限式手製爆弾一個を完成させ、もって、爆発物を製造し、
二 同月三〇日ころから昭和五三年一月一日午後五時過ぎころまでの間、前記被告人方居室及び同渋谷区代々木神園町一番一号明治神宮境内並びに右両地点往復途次の電車内、路上等において、前記第四の一の爆弾一個を所持し
たものである。
(証拠の標目)《省略》
(当裁判所の判断)
第一平安神宮の現住建造物性等について
一 弁護人の主張等
弁護人は、被告人が放火しようとした平安神宮本殿や実際に点火した祭具庫、西翼舎等の建物と、放火当時人が現在しない現住していた社務所や守衛詰所等の建物とは、それぞれ独立した別個の建物であって一体性は認められないうえ、被告人には右両建物が接続していることの認識や社務所等への延焼につき認識・認容はなく、また、放火当時社務所や守衛詰所に人が現在ないし現住していたことについての認識もなかったのであるから、いずれにせよ、本件では非現住建造物等放火罪しか成立しないところ、本件起訴時には既に同罪の公訴時効は完成しているから、免訴の判決がなされるべきである旨主張し、被告人も、本件犯行当時、社務所等の建物に人が現在ないし現住していたとは思わず、また、社務所、齊館と本殿等の建物がつながっているとも知らなかったし、いわんや、社務所等まで延焼するとは全く考えてもいなかった旨弁解する。
二 現住建造物性について
そこで、まず、本件犯行当時の平安神宮の主な建造物の配置、利用状況及び接続状況等に照らし、被告人が現に放火しまたは焼燬を企てた祭具庫、西翼舎、内拜殿及び東西両本殿等の建物が現住性を有するか否かについて検討する。
1 平安神宮社殿の配置、構造
平安神宮社殿、特に内拜殿から南側の部分は平安京の正庁朝堂院を模して作られ、本件犯行当時の社殿の配置は、概ね別紙図面(一)の1のとおりであり、約六万六〇〇〇平方メートルの敷地の西、北、東側に神苑を従え、中央の広場を囲むように内拜殿や廻廊等が配置されているが、そのうち外拜殿(大極殿)、神門(応天門)、蒼龍楼、白虎楼、東西各歩廊、龍尾壇などは、明治二七年に建造され、また、東西両本殿、祝詞殿、内拜殿、東西各翼舎、神楽殿(結婚儀式殿)、参集殿(額殿)、東西各内廻廊、東西各外廻廊、齊館、社務所等は、昭和一五年に増改築されるとともに、従来の社殿も大修理が行われ、また、祭具庫はその後に増築された。
その具体的配置は、東西両本殿(各五五・八六平方メートル)を中心にして、その中央南側に祝詞殿(二二・八四平方メートル)が、更にその南側に内拜殿(二一六・四二平方メートル、以上いずれも木造桧皮葺平家建)がそれぞれ連なり、内拜殿の東側には棟続きの東翼舎(二六・三八平方メートル)が、西側には同じく棟続きの西翼舎(右同)と祭具庫(以上いずれも木造銅板葺平家建)があり、右各建物の南側部分は内拜殿からの通路となっており、その東西両端からは東西各内廻廊(幅約六・四五メートル、長さ約一八メートルのコンクリート製舞台石上に、棟高約五・六メートルの木造平家連棟があり、その具体的構造は、右の連棟の切妻屋根を支えるものとして、廻廊の外側寄りに透壁(上下が白壁(木製)でその中段に木製桟が縦に入った連子窓となっているもの。)、内側寄りに約二・五ないし三メートル間隔で木製丸柱があり、右柱と柱の間には外部とを画する外壁その他の囲いのない様式の単廊、別紙図面(一)の2参照。)が南へ延びて東西各歩廊へ通じている。
また、東西両本殿の北東側と北西側にはそれぞれ東西各神庫(いずれも木造銅板葺平家建)があり、東西各翼舎の端から北方へ延び祝詞殿、東西両本殿及び右各神庫を囲繞する透塀(木造で中段部分に連子窓があり、桧皮葺の屋根のついたもの。以下囲繞塀という。)が張りめぐらされている。
内拜殿の南約一二メートルのところに外拜殿(木造瓦葺平家建四〇五・六一平方メートル、高さ約一六・七メートル)があり、その東西両端からは軒を隔てて東西各歩廊が外拜殿前の広場を取り囲むように延び、龍尾壇の東西両端付近で東西各外廻廊につながっているが、右各歩廊や各外廻廊等の配置は右広場をはさんで東西対称であり、その構造、材質等もほぼ同じであるところ、東歩廊(幅約六・四五メートル、長さ約九〇メートルのコンクリート製舞台石上の中央に前記内廻廊と同様の透壁(しっくい仕上げ)があり、その両端寄りに前同様の木製丸柱が並んでいて、右各柱と柱の間には外部とを画する外壁その他の囲いのない様式の複廊で、棟高約五・六メートルの木造瓦葺平家建連棟。)は、外拜殿東側の軒下から東に延び、南へ屈曲して蒼龍楼(四囲が通路となっている舞台石上に屋根中央と四隅に望楼を設けた二重閣構造の木造瓦葺平家建、一〇〇平方メートル。)に接続し、蒼龍楼東側から再び東へ延び、南へ折れて広場のほぼ中央に東西方向に設けられた龍尾壇(七三センチメートル外拜殿側が高くなっている構造のもの。)の東端のところで東外廻廊(前記内廻廊とほぼ同様の構造の単廊で、長さ約一一〇メートルの木造瓦葺平家建連棟。)に接続し、右東外廻廊はそこから南へ延び、西へ折れて神門東翼舎(木造瓦葺平家建、一四九・八五平方メートル)、神門(応天門・二層楼木造瓦葺二階建総床面積二二六・五一平方メートル)へと連なっている。東外廻廊の東側には北側から齊館(四〇八・六九平方メートル)と社務所(六六七・一四平方メートル)、西側には神楽殿(二三八・〇一平方メートル、以上いずれも木造瓦葺平家建)があり、齊館南側と社務所北側とは瓦葺の屋根と周壁を有する木造の渡り廊下で接続している。そして、西歩廊、西外廻廊側には、広場をはさんで蒼龍楼と正対して白虎楼が、また、神楽殿と正対して参集殿(額殿)があり、神門西翼舎の一角には守衛詰所があり、神門に連なる。なお、本件当時社殿の屋根の葺き替えなどの改修工事が行われており、東翼舎、東内廻廊、東西各神庫、東歩廊及び蒼龍楼の周囲にはそれぞれ足場が組まれ、トタン屋根が仮設されたり、あるいは、シートが覆いかぶせられたりしていた。
2 建物の利用状況等
一般参拝客は、外拜殿で礼拝し、そこから奥へ入ることはできないが、内拜殿では特別参拝客を招じ入れての神職による祭事等が行われており、社務所では婚礼受付事務や一般事務が行われている。当時の宿直には神職二名(権禰宜と出仕)、守衛一名、ガードマン一名の合計四名があたり、宿直員は社務所ないし守衛詰所で執務するほか、出仕と守衛は、権禰宜の命を受け、午後八時ころから約一時間かけて東西両本殿や祝詞殿のある区域を除く社殿建物(内拜殿、東西各翼舎以南にある建物)及び神苑一帯を巡回し、ガードマンも閉門時刻から午後一二時までの間に三回と午前五時ころに右同様の場所を巡回し、神職及びガードマンは社務所で、守衛は守衛詰所でそれぞれ就寝することになっていた。
本件放火のあった昭和五一年一月五日から翌六日にかけての宿直員は、権禰宜木下龍美、出仕秋満克彦、守衛平尾大二及びガードマン一名の合計四名であり、平常どおりの宿直勤務を行い、本件放火時刻である同月六日午前三時過ぎころ、木下、秋満及びガードマンの三名が社務所で、また、平尾が守衛詰所でそれぞれ就寝していた。
3 建物の接続状況
各建物の接続状況につき、弁護人の指摘する点を中心に検討する。
(一) 東西各内廻廊と東西各歩廊間の状況
東西各内廻廊の南端が東西に延びる東西各歩廊とT字型に接しているが、その部分の各屋根の状況をみると、東西各内廻廊南端(木製のもので先端部に銅板が被せてあるもの。)と東西各歩廊の軒先(木製)とは約二〇センチメートル強の間隔がそれぞれあるが、その間には、雨樋(材質は可燃性のエスロン、深さ・幅各約二〇センチメートル、長さ約六・三二メートル)が右両者のすき間を塞ぐような状態で各歩廊の軒先に取り付けられているほか、各内廻廊の屋根に固定されたしぶき止め(エスロン製で、雨の飛沫が歩廊と内廻廊の接続部分から落ちてその下を通る歩行者が濡れるのを防ぐためのもの。東西の長さ約四・二七メートル)の下端が右雨樋の中に深く差し込まれていて、容易に取りはずしのできない構造となっており、その間には物理的な接続があるとみることができる。
また、東内廻廊と東歩廊との接続する地点の北東側角に団体受付所の建物があり、その屋根の上に木枠に打ちつけられたビニール製なまこ板が載せられ、右なまこ板は東内廻廊、東歩廊の各軒下にまで入り込み、一部が軒下に固定されているほか、東歩廊から延びるケーブル管が右なまこ板の木枠に取り付けられ、更にそれが東内廻廊へ続いている。
(二) 東西各歩廊と東西各外廻廊間の状況
東西各歩廊の南端にはいずれも三本の柱(廊下の両側と中央の透壁の柱)があり、内側廊下の柱と中央部の柱の間には防火シャッターの設備が、また、外側廊下の柱と中央部の柱の間には鉄製扉がそれぞれ取り付けられており、これらの上部には上下二本の梁と白壁とがあるが、右三本の柱、下側の梁及び白壁はいずれもコンクリート製であり、上の梁は木製である。そして、東西各外廻廊の屋根が東西各歩廊の屋根の下に深く入り込み、各外廻廊の連子窓の入った透壁と各歩廊外側の柱が密着、固定され一体となっており、右各屋根の下地には多数の角や丸の木材が使われている。
なお、弁護人は、歩廊南端にある防火シャッターや鉄製扉が延焼予防設備として高度の有効性をもつというけれども、右歩廊及び外廻廊の連子窓の入った透壁はいずれも土壁しっくい仕上げであるうえ、右歩廊の屋根の軒先は廊下両側にある柱よりも先まで張り出しており、しかも、右屋根は外廻廊の屋根の上まで延び、右各屋根の下地や歩廊南端にある梁の一部がいずれも木製であることなどからすれば、前記程度の防火シャッター設備や鉄製扉等では、いまだ延焼防止の役割を果すには不十分なものといわざるを得ない。
(三) 東外廻廊と齊館・社務所間の状況
(1) 東外廻廊と齊館とは、以下の三か所において接続している。
(ア) 齊館北西にある水屋部分の柱、梁及び白壁は、東外廻廊の壁に一体のものとして密着、固定されて接続している。
(イ) 水屋の南(神楽殿入口の反対東側)には瓦屋根と周壁を有する木造の渡り廊下(長さ約五・二五メートル)があるが、これが齊館と東外廻廊とにそれぞれ一体のものとして密着、固定されて接続している。
(ウ) 更に、その南には齊館の参進口があり、そのひさしが東外廻廊(宣教門の部分)の軒下にまで延び、東外廻廊の軒先に取り付けられたしぶき止めの下端が参進口のひさしに設置されている雨樋の中に差し込まれている。
(2) 社務所内西側にある婚礼受付所とその南側のひさしは東外廻廊の壁と近接し、東外廻廊の屋根が婚礼受付所の屋根の上に大きく張り出しており、婚礼受付所と東外廻廊との間の壁の柱や梁は、一部分で接着しているほか、離れている部分でもわずか三ないし六センチメートルの間隙があるのみであり、また、婚礼受付所屋根の軒先にある雨樋は、金具によって、婚礼受付所及び東外廻廊の両者に支えられている。
(3) 齊館と社務所とは、屋根及び周壁を有する渡り廊下で接続する一体構造となっており、右渡り廊下には鉄製の防火扉が設置されているものの、右扉の周囲にある天井や柱などはすべて木造であるため、防火の用は全くなさない状況である。
以上のとおり、弁護人が問題とする各接続部分のうち、東西各歩廊と同各外廻廊との間、東外廻廊と齊館・社務所との間及び齊館と社務所との間は、いずれも構造上両者が一体不可分のものとして密着して接続することが明らかであり、また、東西各内廻廊と同各歩廊との間も物理的には右のように一体不可分とまではいい得ないにせよ、機能的、構造的にみれば、その接続性は優にこれを肯認し得るものというべきである。
4 焼燬状況
被告人の判示第一記載の放火により、西翼舎、祭具庫をはじめとして、東西両本殿、内拜殿等が、これを目撃した宿直員に、社殿全域に燃え広がるのではないかとのおそれを感じさせるほどの勢いで激しく炎上した。そして、その具体的な焼燬状況は以下のとおりである。
焼燬の範囲及び程度をみると、折からの南西の風にあおられ、東西両本殿、祝詞殿、内拜殿、東西各翼舎、祭具庫がみな全焼したほか、東西各内廻廊、宝庫、神饌所、囲繞塀の各一部が焼損しているが、西翼舎の焼燬程度が最も大きく、出入口の扉、囲繞板等は完全に焼失し、炭化した柱と屋根の横渡しの主材の一部を残すのみであり、他の建物の焼燬状況をみても、概ね西翼舎に近い部分ほど焼損の程度は激しくなっている。内拜殿や東翼舎は建物全体が著しく焼損し、炭化した支柱等が残るのみであるが、内拜殿西寄りの部分では、垂木や棟木等も焼失しており、祝詞殿と西本殿も支柱等を残してほとんど焼失し、祝詞殿南側階段の手摺、西側の欄干、西本殿南側の欄干等は完全に焼失し、西本殿南側にある石段も、火勢により原型をとどめぬほど焼損、細分化し、また、東本殿も西本殿に比べると焼損の程度は軽く、建物北側及び東側の囲い板の一部等が残存し、表面の炭化も軽微ではあるものの、建物全体が一様に焼損し、南側階段の西寄りの支柱が焼失して階段板が落下し、また、その南側の石段も火勢により細分化している。祭具庫は西翼舎と同様焼損の程度が激しく、屋根の垂木や主柱等をいくつか残すのみである。囲繞塀は、本殿西側にある西翼舎から北方へ延びる部分の焼損が顕著であり、南寄り約三分の二は支柱及び屋根の横木の一部を残してすべて焼失しており、本殿東側の東翼舎から北方へ延びる塀も南寄り半分くらいにわたりその側板等が焼損し、また、本殿北側にある囲繞塀(後門付近)はその一部が燻焼し黒変している。宝庫は屋根の東側部分の焼損が著しく、東側の板囲いも表面が炭化しており、また、神饌所は屋根がほぼ全焼し、西側の壁が黒変し、木材部分は表面が炭化し、東西各内廻廊も北寄りの部分が焼損している。
5 放火地点から齊館、社務所等までの距離
放火地点である祭具庫から齊館の水屋までの距離は東内外廻廊、東歩廊沿いに約一七〇メートルであり、祭具庫から社務所内婚礼受付所前までの距離は、同経路で約二三一メートル、直線で約一六五メートルあり、また、祭具庫から守衛詰所までの距離は、西内外廻廊経由で約二三五メートル、直線で約一四四メートルある。
6 以上のとおり、被告人が放火した祭具庫、西翼舎、東西両本殿、内拜殿等の建物と宿直員の現住していた社務所、守衛詰所とはかなりの距離があるものの、堅固な造りの東西各内外廻廊や東西各歩廊等が中央の広場を囲むように方形に連なり、廻廊や歩廊づたいに各建物を一周し得る機能、構造となっているうえ、その途中には蒼龍楼その他の楼閣等が存しており、これらの建造物を全体としてみた場合、その接続性は優に肯認することができる。また、右廻廊、歩廊等は、前記のとおり、屋根及び柱、壁の一部に不燃材料が使用されているとはいえ、屋根の下地、透壁及び柱等に多数の木材が使用されているほか、蒼龍楼その他の楼閣等も木造のものであり、このような建物の構造、材質や本件火災時にみられる前記のとおりの焼燬状況などに鑑みれば、風向、風速、湿度その他の気象条件や火災の発見、消火状況等のいかんによっては、社務所や守衛詰所への延焼の可能性も否定し得ない。
したがって、以上を総合して考察すると、被告人の放火した祭具庫、西翼舎、東西両本殿、内拜殿等の建物部分と人の現住していた社務所、守衛詰所の部分とは、これを一体のものとして、その全体について現住建造物性を肯定することができるものというべきである。
三 現住建造物であることについての被告人の認識
1 弁護人は、本件犯行当時、被告人は、平安神宮の建物(社務所、守衛詰所等)に人が現在または現住すること及び右建物と放火地点付近の建物(祭具庫等)とが接続していることの認識を有しておらず、これを有していた旨供述している被告人の自白調書は、取調官の不当な誘導等によって作成されたもので信用性がない旨主張し、被告人も捜査段階においては、右の各点をも含め全面的に自白していながら、本件放火で起訴された当日の勾留質問以降、本件公判を通じ、右の各点の認識はなかった旨供述している。
2 被告人の捜査段階における供述
(一) 被告人は、人の現住性の認識について、
(ア) 昭和五一年一月一日から同月四日までの間に、昼二回、夜一回の合計三回にわたり、平安神宮及びその周辺を下見したが、放火の際、人に発見されるおそれがあったので、下見のときには、特に人が住んでいる可能性のあるところはどこかという目で建物を見た。
(イ) 第一回目の下見のとき、応天門左手通路脇に守衛らしい人のいるところがあった。
(ウ) 平安神宮の境内を見終った後、その外周の道路も一周してその周辺の状況を確認した。
(エ) 右下見の結果、齊館と社務所は、内拜殿や廻廊、歩廊等と異なり、一般の建物に近い建て方だったので、この建物には平安神宮の関係者が住んでいるか、あるいは、夜は警備の人や宿直の人が泊っているのではないかと思った。
(オ) 夜間の下見では、平安神宮の外から見た警備状況などを確認するために、その外周の道路を一回り見て歩いたが、平安神宮前(南側)の道路を通った際、社務所に明かりがついているのが見え、やはりこの建物には人が住んでいるか、警備か宿直の人が泊っているということが分かった。
(カ) しかし、守衛らしい人がいたところに明かりがついていたかどうかについては気付かず分からなかった。
(キ) また、犯行当日平安神宮の周囲を一回歩いてみたような気もするがはっきりしない。それで、その際、社務所に明かりがついていたかどうか覚えていない。
旨供述している。
(二) また、被告人は、建物の接続性の認識について、
本件放火に関する捜査当初の段階においては、
(ク) 下見の際、平安神宮にあった案内板か平安神宮で入手したパンフレットのいずれかによって、平安神宮の建物の位置関係や大体の構造が分かった。
(ケ) 一回目の下見の結果、内拜殿と外拜殿は屋根と壁のある廊下のような建物(歩廊、廻廊)で応天門まで続いていることが分かった。
(コ) 齊館と社務所は、齊館東側の神苑や齊館北側の神苑出口付近からその周囲を見ただけで内部は見ていないが、平安神宮の建物であり、廊下のような建物(東外廻廊)に近接して建っていたので、これと廊下でつながっていると思っていた。この点は案内板等で確認しているかもしれないがはっきりしない。
(サ) 社務所は内拜殿まで続く廊下のような建物(東内外廻廊、東歩廊)と廊下でつながっていると思っていたが、祭具庫付近に火を付けても、それが社務所まで燃え広がっていくとは考えなかったし、その建物に居る人に被害を与えるなどということは考えていなかった。
旨供述し、
更に、被告人らの立会のもとに同月一五日に行われた平安神宮の実況見分後の取調においては、
(シ) 右実況見分に立会って思い出した点や、同月一〇日の取調の際供述したことに記憶違いの点があった。すなわち、下見の際、東側の神苑を歩いてその南側から齊館と社務所が接続している部分を見たり、神苑出口付近で齊館と屋根と壁のある廊下のような建物(東外廻廊)とが接続していることは見ていたのだが、当時はこれらの建物について、人が住んでいる可能性があるところはどこかを見るのが中心的な目的だったので、右の各接続状況は余り印象に残っておらず、同月一〇日の取調の際にはそれを覚えていなかったため、記憶にしたがって齊館や社務所が屋根と壁のある廊下のような建物(東外廻廊)と廊下でつながっていると思ったと述べた。
(ス) その下見の際、栖鳳池の橋(橋殿)を往復したかもしれない。
旨供述している。
3 そこで、右自白部分の信用性について検討する。
(一) 自白の経過及び内容の具体性等について
まず、自白の経過等についてみると、右各供述については、被告人、弁護人ともにその任意性の存在を特に争っていないだけでなく、被告人は、前記「犯行に至る経緯等」の一一で認定したとおり、寿荘誤爆事件(判示第四の各犯行)を起こして逃走中に、自己の行ってきた闘争が誤りであったことを自覚し、真しに反省して、寿荘誤爆事件で逮捕された後、自己の闘争過程やその後の思想的変遷を明らかにしたいとの気持ちなどから、素直に取調等に応じ、早期に他の爆弾事件のほか本件放火についても全面的に自供するとともに、実況見分に立会ってすすんで指示説明を行うなどしたものと認めることができる。
次いで、自白内容について検討するに、前記摘示した各供述部分の録取されている各自白調書を全体的にみると、本件放火に至った経緯、動機、下見等の準備段階の状況、犯行状況、犯行後の行動等右各供述部分以外の諸点についても、全般にわたって極めて具体的かつ詳細な供述がなされていて、その内容も自然で合理性があり、しかも、被告人しか知り得ない事柄も含まれており、また、前記(カ)、(キ)、(ク)、(コ)、(サ)、(シ)、(ス)などのように、重要と思われる事柄について、被告人が否定している点や記憶があいまいだとしている点もそのまま録取されているなど、弁護人が指摘するような、取調の際に、不当な誘導等がなされ、捜査官の意のままの調書が作成されたとの形跡はうかがわれず、また、供述の変遷がみられる箇所(例えば、前記(コ)→(シ))などについても、同月一五日の実況見分に立会って、下見当時の記憶が喚起されたためであることなど、その理由についての合理的な説明がなされており、その間に不自然さは存在しない。
(二) 客観的状況等との整合性
(1) 建物の接続性について
下見の目的、経路について、被告人は、齊館と社務所との接続部分の付近を見たとの点を除いて、公判廷でも捜査段階とほぼ同旨の供述をしているが、これによれば、被告人は、人に見つからぬように入り、放火するため人がどこにいるかという点に関心をもって下見をしたが、その順序は、応天門から入って外拜殿まで直進し、左折して神苑入口を通って神苑の西側に入り、西内廻廊に沿って北上して祭具庫付近に至り、同所からほぼ神苑内の順路に沿って本殿の外周を回り、侵入口として丸太町通り側の通用門を見るなどして、神苑東側に出て、栖鳳池の西側に沿って南下し、距離の遠近は別にして齊館の東側、社務所の北東側にまで至った後、同所から再び逆戻りするように北上し、齊館北側の神苑出口から東外廻廊を横切って広場に至ったというもので、その経路で昼間二回下見したほか、更に、平安神宮の外周の道路(冷泉通り、桜馬場通り、丸太町通り、岡崎通り)を昼夜の二度にわたり各一周したというものである。
そして、前記二の1記載のとおり、平安神宮の建物は応天門を入ると外拜殿方面から歩廊や廻廊等が広場を取り囲んで方形に連っているのが一望できる配置となっており、また、齊館や社務所は東外廻廊に近接して建てられていて、しかも、東外廻廊と接続している齊館水屋部分は神苑出口のすぐ南側にあって、神苑から右出口を通過する際にはその接続状況が容易に現認できる状況にあり、右下見の当時応天門前西側付近に掲示されていた「平安神宮境内略図」には、東歩廊、齊館、社務所、東外廻廊の間が明確にそれぞれ接続しているように図示されていたことが認められ、これらの各状況に右下見の目的、経路等をも併せ考察すると、被告人が本件下見の結果、放火地点から社務所まで建物が接続していることを認識していたという被告人の前記各供述部分は、客観的状況等に即応し、自然で合理的なものということができる。
(2) 人の現住性について
前記のとおり、平安神宮では、夜間宿直員が勤務しており、社務所事務室内の螢光灯二本と婚礼受付所前の螢光灯一本は終夜点灯されており、被告人が夜間の下見で歩いた平安神宮南側の冷泉通りから社務所方向を一瞥すれば、前記各電灯が点灯されて、右事務室内が明るくなっているのが明瞭に視認できる状況にあったこと、齊館及び社務所は、その構造や屋根瓦、柱、壁等の色彩などが外拜殿、蒼龍楼、神楽殿、歩廊、廻廊などと一見して異っており、むしろ、一般の建物に類するものであることがそれぞれ認められるところ、被告人の捜査段階における前記各供述部分は、これらの各状況に即応していて合理性があるものといえる。
以上のとおり、被告人が本件放火について自白するに至った経緯、供述時及び実況見分時における被告人の対応状況、供述内容の具体性、合理性、客観的諸状況との整合性等を総合して考察すれば、被告人の捜査段階における自白は、前記各供述部分を含め、その大筋においていずれも優に措信し得るものというべきである。
4 被告人は、右各認識の点について、次のように弁解している。
まず、人の現住性について、被告人は、公判において、夜の下見の際社務所に明かりがついていたという記憶はなく、人が現住していることも認識していなかった旨供述するが、前記のとおり、夜間における冷泉通りから見た社務所の灯火の見通し状況や夜間の下見の目的等に照らすと、被告人が社務所の明かりに気付かなかったとは到底考えられず、また、夜間の下見が犯行準備のための重要な事柄であって、強く印象に残るべき性質のものであることなどを考え併せると、捜査段階の自白に比べ被告人の右弁解は甚だ不自然、不合理であって、到底措信するに足りない。
また、建物の接続性について、被告人は、公判廷において、齊館と社務所間の接続部分や齊館水屋部分と東外廻廊との間の接続部分については見ておらず、およそ接続性についての認識はなかった旨供述するが、被告人の自認する前記の下見の経路、状況、とりわけ、昭和五八年七月一五日の実況見分の際に、被告人が自ら下見の経路を案内して斎館東側南端付近にまで至ったり、齊館水屋部分と東外廻廊との接続部分を被告人が指示したりしていることと矛盾するうえ、建物の接続状況を認識していた旨の前記各供述調書の作成過程について、被告人の公判で述べているところが、その供述内容自体及び捜査段階における供述内容と対比して極めて不自然、不合理であることなどに鑑みると、前記接続性の認識がなかったとの点に関する弁解もこれまた到底措信し得ないものというべきである。
5 したがって、被告人の捜査段階における前記各供述は、大筋において十分措信することができ、これに関係各証拠により認められる他の客観的な諸状況をも併わせ考えれば、被告人は、本件犯行当時、放火地点の祭具庫、西翼舎等と社務所とが歩廊や廻廊等によって接続していること及び社務所に宿直員等が寝泊りしていることを認識していたものといわざるを得ない。
四 以上の次第で、被告人の本件所為は、判示第一のとおり、現住建造物等放火罪に該当するものと認められるので、これに反する弁護人の主張は採用できない。
第二爆発物取締罰則の合憲性等について
一 弁護人は、爆発物取締罰則は、(一)その立法形式が「法律」ではなく太政官布告であるから、憲法三一条に規定する罪刑法定主義に違反し無効である、(二)同罰則の定める「治安ヲ妨ケ」との文言は極めて不明確であって、憲法三一条に違反し無効である、(三)同罰則一条の法定刑は、刑法の殺人罪等のそれに比べ著しく刑の均衡を失するものであるから、憲法一四条、三一条に違反し無効である、というのである。
しかしながら、爆発物取締罰則が弁護人主張のような違憲無効のものでないことは、累次にわたる最高裁判所判例の示すところであり(右(一)の主張について、最二小判昭和三四年七月三日・刑集一三巻七号一〇七五頁、同(一)ないし(三)について、最一小判昭和四七年三月九日・刑集二六巻二号一五一頁。)、当裁判所も同様に解するので、弁護人の右各主張はいずれも理由がなく、採用できない。
二 弁護人は、爆発物取締罰則一条及び三条所定の各目的があるというためには、治安妨害、身体財産への加害という結果発生を確定的に認識し、かつ、右結果発生を意欲していることを必要とすると解すべきであるというのであるが、爆発物の構造、威力の程度及びこれを使用する時期、方法並びに同罰則制定の趣旨等に鑑みれば、右各目的は、結果発生に対する未必的認識・認容で足りるものと解するのが相当であり(東京高判昭和五六年七月二七日・高刑集三四巻三号三三一頁、東京高判昭和五九年六月一三日・同三七巻三号三八三頁、東京高判同年一二月四日・東高時報三五巻一〇・一一・一二号刑九六頁。)、それ以上に確定的認識や意欲までを必要とするものでもなければ、同目的が唯一かつ排他的なものである必要もない(最三小判昭和四二年九月一三日・刑集二一巻七号九〇四頁。)というべきである。
第三判示第二、第三の一ないし五の各事実における爆発物取締罰則一条所定の各目的等の有無について
一 弁護人は、右各目的(但し、梨木神社爆破事件は、身体加害目的を除く。)及び傷害の結果を生ぜしめた事件については暴行、傷害の故意の存在を争い、被告人の無罪を主張するので、以下、関係各証拠に基づいて、右各爆破事件における爆弾の構造、使用状況、被告人の有していた爆弾の威力についての認識及び捜査段階における被告人の自白の信用性等を逐次検討し、右各目的の有無、内容等について判断する。
二 各爆破事件における爆弾の構造、使用状況等
1 梨木神社爆破事件
(一) 爆弾の構造
本件で使用した爆弾の構造は、容器として密封性のある消火器(内容積約二・五リットル)を用い、塩素酸ナトリウムを主成分とする除草剤約七五パーセント、桐灰約一五パーセント、硫黄約一〇パーセントの割合(重量比)で混合した塩素酸塩系爆薬約〇・八キログラムをビニール袋に詰めたうえ、右消火器の中に入れ、その上下の隙間にティッシュペーパーを充填し、ガス点火用ヒーターの先端部に発火薬を封入して、リード線を付けた起爆装置を右爆薬中に埋め込み、これに携帯用タイマー(ぜんまい式)を利用した時限装置を接続させ、電源として単三乾電池二個を使用したというものである。
(二) 現場の状況等
梨木神社は、京都市内のほぼ中央にあたる京都御所の東側に道路を隔てて位置し、南北約二二〇メートル、東西は南側で約三三メートル、北側で約五〇メートルの長方形状の敷地を有するが、同敷地内には社務所や神社関係者の居宅があるほか、同神社北側及び東側には道路を隔てて立命館大学、寺院、民家等が建ち並んでいる。
別紙図面(二)のとおり、同神社本殿は、同敷地内の北寄りにある木柵で囲まれた神域内の北側部分に、更に東西約一四メートル、南北約二五・六五メートルにわたる透塀で長方形に区画された内部に、祝詞舎とともに位置する桧皮葺起り屋根の高床式木造建物であり、四本の桧丸柱を主柱とし、右主柱間は南側の正面を除き板壁で囲まれ、その内部は正面側約五分の二が外陣、その奥約五分の三が内陣と呼ばれ、その間は観音開きの板扉で仕切られ、その外部には高欄付の廻縁が巡らされ、右廻縁を含む本殿の床面積は約一六・五平方メートルである。被告人は、昭和五二年一月一日午後八時過ぎころ、右本殿裏(北側)で約三〇分後に爆発するよう時限装置をセットしたうえ、右本殿外陣南東隅付近に、ガソリン二リットル入りのガラスびんと並べて本件爆弾を設置した。
(三) 被害状況等
本件爆弾は、同日午後八時四〇分過ぎころ、本殿の南約七〇メートルの所にある社務所内にいた同神社宮司稲原照が「今まで聞いたことがない。」と感じるほど大きな音をたてて爆発し、これにより本殿内部が爆破されるとともに炎上し、同人らの消火活動によって鎮火はしたものの、次のような被害が生じた。
爆心地である本殿外陣南東角桧丸柱付近の厚さ約二・五センチメートルの床板が、長さ約二三センチメートル、幅約二五センチメートルにわたり抜け落ち、右床約一・二六メートル下の地面は、半径約一六センチメートルの範囲で、約五センチメートルの深さにえぐられ、直径約二五センチメートルの右桧丸柱の東側全面が、幅約三〇センチメートル、厚さ最大約五・五センチメートルの範囲で剥離したように裂けて飛散し、右柱に取り付けられていた本殿東側の厚さ約三センチメートルの板壁が脱落し、本殿東側廻縁の直径約六センチメートルの高欄が南端から約二・二八メートルにわたって破損し、その一部は約四メートル先まで飛散している。
また、本殿石積敷の南西石段取付部の縁石の継ぎ目が約二センチメートルもずれ、本殿南西角の桧丸柱南側面には、全長にわたり上部で幅約二センチメートル、下部で幅約〇・五センチメートルの亀裂が生じているほか、本殿東側の上下各長押、化粧板壁、西側上長押、本殿扉隙かくし木がそれぞれ脱落し、本殿外陣の天井鏡板は破壊脱落し、野地板にも乱れが生じており、本殿の正面(南側)に軒を接して位置する祝詞舎の北端梁北面(高さ約二・三七メートルにあるもの。)は、長さ約一・二八メートル、幅約一二センチメートルにわたってえぐり取られたようになっている。
更に、爆弾の破片や爆砕された木片等が、本殿東側の境内を中心に多数散乱し、特に爆弾の容器であった消火器の破片の一部は、同神社東側の道路(幅員約七メートル)を隔てた向い側にある寺院の空地や民家の屋根にまで飛び、また、右消火器のキャップ部は同神社北側の道路(幅員約八・五メートル)を隔てた向い側の立命館大学の敷地内に飛び込んでいる。
2 東急観光爆破事件
(一) 爆弾の構造
本件で使用した爆弾の構造は、梨木神社爆破事件に使用したものとその容器、起爆装置、時限装置についてはほぼ同様であるが、爆薬の成分として砂糖が桐灰の一部に代用され、また、爆薬量も梨木神社爆破事件の爆弾の倍近い約一・五ないし一・六キログラムとされた。
(二) 現場の状況等
被告人が爆弾を仕掛けた中村屋ビルは、国鉄大阪駅西口の南方約五五〇メートルの同駅前から南へ延びる四つ橋筋道路(歩車道の区別があり、車道の幅員約二〇メートル。)の堂島中一丁目交差点北西角に位置し、その周辺は商社、銀行等の事務所、飲食店や堂島地下商店街及びこれに通じる地下出入口等が混在する繁華街であり、日中の人や車の通行は頻繁である。
中村屋ビルは、東急観光をはじめ、大阪淡路交通株式会社、琉球新報社大阪支社等六社と麻雀店、飲食店のほか経営者の自宅もある地下一階、地上八階建(七、八階以外は各約二三〇平方メートル)の雑居ビルである。同ビル二階には、別紙図面(三)のとおり、ついたてで仕切られた北側に東急観光株式会社大阪海外旅行センター(所員一八名)、南側に同社関西仕入センター(同一一名)の各事務室があり、その南西側は、エレベーター乗降口と階段のあるホールとなっており、右ホールと前記事務室との間はコンクリート壁で仕切られているが、右壁の中央南寄りに出入口があり、外側に観音開きの鉄扉二枚(営業時間中は開放)、その内側にステンレス製上下枠に半透明の一枚ガラスの入った両開きドア二枚(いずれも高さ約一・八七メートル、幅約〇・七三メートル)が設けられている。
そして、被告人は、堂島地下街の便所で約一〇分後に爆発するように時限装置をセットしたうえ、昭和五二年二月二一日午前一〇時三〇分過ぎころ、右ホールの北東隅(階段踊り場側)床上に爆弾を設置し、同日午前一〇時三七分ころ、これを爆発させたが、右爆発時には、前記関西仕入センター内の前記出入口ドアから約二・〇四メートル入った付近に置かれていたカウンターの出入口側にシンガポール航空の従業員池本祐一及び同結城健夫が座り、同カウンターを隔てて座っていた東急観光の従業員森義明と商談をしていたほか、同室内には、金尾明ら同センター所員一一名及び大阪海外旅行センター従業員数名が執務していた。また、同ビル三階の大阪淡路交通株式会社事務室では、同社嘱託真砂野栄治、同社従業員林敬一ら約九名が執務しており、更に、中村屋ビルの所有会社社長の娘が郵便物を各階のテナントに届けるべく、一階から地下一階に下りる階段の中間踊り場にある郵便受の前にいたほか、前記以外の各階でもテナント各社の従業員等が執務するなどしていた。
(三) 被害状況等
被告人の設置した爆弾は、大音響をあげて爆発したが、これによる被害状況は以下のとおりである。
(1) 人身被害 同ビル二階にいた前記池本及び結城は前記カウンターに身体をたたきつけられ、同室出入口ドアから約五メートルの位置にある机にドアを背にして中腰でいた前記金尾が約一メートルほど前方に吹き飛ばされ、また、三階で執務中の前記真砂野及び林はビルが揺れ、座っている椅子ごと身体が浮き上がるほどの衝撃を受けたうえ、飛散した窓ガラスの破片等により、別紙受傷者一覧表(一)記載のとおり、右池本ら六名が負傷した。
(2) 物的被害
(ア) 二階事務室前ホールの状況
爆心地である二階事務室前ホール北東隅の床面には、直径約一〇センチメートルのほぼ円形状にアスタイルが剥離し、その下のコンクリート面が約四ミリメートル沈下して漏斗孔ができており、右漏斗孔から放射状に約一二ないし二〇センチメートルの亀裂が数本走り、また、右漏斗孔北側は数か所アスタイルが剥離し、コンクリート表面が削り取られている。北側及び東側の壁は、それぞれ下端部約一〇センチメートルが人造石の腰壁であり、その上部はコンクリートとなっていたが、北壁と東壁の接合部には、腰壁の上に縦約七センチメートル、横約三センチメートルの変形木の葉状の破砕孔ができ、右破砕孔上部には約三〇センチメートルの亀裂が生じているほか、北壁や東壁の腰壁や壁面には、多数の亀裂や剥離がみられる。同ホール東壁面の北端から約一・二一メートルの位置に取り付けられていた消火栓格納箱(縦約九〇センチメートル、横約六〇センチメートル)の鉄製蓋がはずれて床面に落下し、右蓋の爆心地側外枠部分は、くの字型に歪曲し、直径約四センチメートルの貫通孔が生じている。同ホール南側の壁の上部(床面上約八三センチメートルから天井までの部分)に取り付けられた合せガラス三枚(縦約一・七メートル、横約〇・八八メートル、厚さ約一・五センチメートル)の固定窓は鉄製枠を残すのみでガラス部分は粉々に割れて路上に落下、飛散している。同ホールと前記事務室との間の両開きの前記半透明ガラス入りドアのガラスは粉々に割れて事務室内に飛散し、同ドアの重さ約四・五キログラムのステンレス製把手二個が事務室内の奥四ないし五メートル付近まで飛び、右各ドアのステンレス製上枠二本(長さ約七三センチメートル、幅約八センチメートル、厚さ約三センチメートル、重さ約八キログラム)はいずれも事務室内カウンター側に落下し、ドア上部のかまちにはひび割れが生じている。
更に、同ホール西側にあるエレベーター乗降口のドア二枚のうち一枚は内側に約八〇センチメートル脱落し、一枚はその下部が大きく内側にはずれている。同ホールの天井は、枠木と吊木の一部を残して、天井板、枠木等がほとんど脱落して床上に落下し、コンクリートの素地があらわとなり、右コンクリートの一部がえぐり取られている。そして、同床面には、右落下、飛散した天井板、枠木、吊木、螢光灯枠等がうず高く積もり、足の踏み場もないほど散乱している。
(イ) 二階事務室内の状況
関西仕入センター事務室内には、前記のとおり、一面にガラス破片が飛散し、出入口ガラスドアの把手が落ちているほか、南側出入口寄りの窓ガラス(高さ約一・七メートル、幅約八八センチメートル)二枚が割れ、うち一枚はその大半が飛散しており、その下のコンクリート壁には縦に亀裂が生じている。また、前記ホールと同事務室との間仕切りの厚さ約一八センチメートルのコンクリート壁の爆心地裏側にあたる壁面には放射状に亀裂が生じている。
(ウ) 階段の状況
一階から二階及び二階から三階に至る各階段の中間踊り場にある縦約九三ないし九四センチメートル、横約九二センチメートルの各明かり窓のガラス(二枚引戸)が割れ、二階から三階に上がる階段の下から三段目のすべり止め金具の南半分が剥離して浮き上がり、コンクリート及び人造石が長さ約二八センチメートル、幅約一二センチメートルにわたってえぐり取られ、爆心地の西側にあたる右階段裏側の壁と二階床面側壁との接合部に深い亀裂が生じ、階段がやや沈下した状態となり、また、右階段二階から三階へ上がる途中の爆心地から約五メートルの距離にある階段の手すり支柱(約二センチメートル角の金属製パイプ)には損傷孔や屈曲が生じ、右階段裏側のコンクリート壁面(爆心地から約四・四メートル)には、縦約一三センチメートル、横約一二センチメートル、深さ約一センチメートルの剥離痕がある。
(エ) 三階の状況
三階の大阪淡路交通株式会社事務室前ホールの天井板がめくれて多数はずれかかり、南側窓のガラス(二階と同じ合せガラス)三枚の各外側のガラスはいずれも割れて路上に落下、飛散し、内側の金網入りガラスも無数にひび割れしている。また、右事務室出入口のガラス入りドア(二階と同様のもの)は、下枠だけを残してガラスは粉々になり、ステンレス製把手及びステンレス製上枠は右出入口から一メートル以上奥の同室内に飛散し、出入口ドア内側に据えてあったついたてのガラスも破損しほとんど飛散している。
(オ) その他の状況
三階から四階に上がる階段中間踊り場の明かり窓のガラスがひび割れし、四階フロア南側の窓ガラスには放射状のひび割れや破損が生じ、一部は路上に落下、飛散している。爆心地である二階事務室前ホール直下の一階正面玄関ホールは、西北隅の天井板六枚がはずれているほか、同ホール南側道路に面する幅約二・八メートルの玄関の両脇(東西各壁面から約七二センチメートルの位置)にあるステンレス製固定ガラス枠(長さ約二・〇五メートル、幅約六センチメートル、厚さ約四センチメートル)はそれぞれ中央部が外側に湾曲し、はめこまれていた各ガラス(厚さ約〇・七センチメートル)も粉々に割れ、また、その内側に設置された電動式両引自動ドアの西側ドアガラス(縦約一・九六メートル、横約六七センチメートル、厚さ約一・一センチメートル)は粉々に割れて飛散し、右ドア及び固定枠の上部にあるかまち上の窓ガラス(高さ約四一センチメートル、幅約二・八メートル)も上側の一部が波状に残るほかは割れて落下している。
地下一階も、電気室出入口鉄製ドア(高さ約一・九九メートル、幅約九〇センチメートル)にひずみ(上端部で約一・八センチメートル)ができて閉まらなくなり、麻雀店内のついたてのガラス及び腰板が割れて飛散し、同店北東側の出入口ドアも開閉不能となり、入口ドアガラスの上枠(ステンレス製約八キログラム)や天井板の一枚が脱落している。
同ビル南側には幅員約六メートルのアスファルト舗装の道路が東西に通じているが、右道路上に同ビル正面玄関外側に置かれていたヒマラヤ杉の植木鉢二個が倒れ、正面玄関前付近を中心にガラス片や天井板等が一面に散乱しているほか、本件爆破当時、右道路上を西走していた普通乗用自動車上に金属片等が落下し、リアウインドーのガラスが全面にわたって割れ、右側前輪タイヤがパンクした。また、右道路の向い側にある料亭の北側板塀には、各所にガラス破片が突き刺さった痕跡があり、右板塀上部の瓦が数枚割れ、塀内側の小屋根の銅板が数枚めくれ、料亭二階のひさし下の北側明かり窓のガラスが三枚破損し、塀内側の屋根上にガラス破片等が多数飛散している。
3 東大法文一号館爆破事件
(一) 爆弾の構造
本件爆弾は、一連の爆破事件の中でも最大のものであり、その構造はほぼ前同様であるが、容器として使用した消火器は他の事件よりも大きく(内容積約四リットル)、爆薬も梨木神社爆破に使用したのと同様の混合比の塩素酸塩系爆薬を他の事件よりも多い約二・五ないし三キログラム用い、起爆装置には豆電球のガラスの先端部に穴をあけ、その中に発火薬を詰めてビニールテープで密封し、リード線を豆電球のねじ込み金具部分にハンダ付けしたものを、雷管容器の中に封入して右爆弾の中に埋め込み、時限装置は携帯用のぜんまい式目覚し時計を利用して作製し、単四乾電池二個を電源とした。
(二) 現場の状況等
被告人が爆弾を仕掛けた東京大学法文一号館は、文京区本郷の東京大学構内のほぼ中央正門寄りにあり、右正門から安田講堂に通じる直線道路(通称銀杏並木通り、幅員約二五メートル)に面して建てられた東西約一一〇メートル、南北約三九・五メートルの鉄筋コンクリート造り三階建建物(一部地下一階、一部四階建・総床面積約一万九一平方メートル)であるが、付近には右安田講堂をはじめ工学部の校舎、事務棟などが建ち並び、右銀杏並木通りを隔てて法文二号館と正対している。
法文一号館は、一階の中央やや西側寄りに南北に貫くアーケードがあり、それを境にその東側部分を法学部が、西側部分を文学部がそれぞれ使用している。法学部が使用している東側部分は、そのほぼ中央に採光用の吹き抜けの空間(光庭)があり、これを取り囲むように一階には法学部二一番教室、同二二番教室、演習室五室、用務員室等が、二階には法学部二五番教室、法学部長室、同秘書室、法学部事務室、同会議室等が、三階には、別紙図面(四)のとおり、法学部二六番教室、同二七番教室等があるほか、演習室四室、学生室等がそれぞれ配置されている。
そして、被告人は、同館一階の便所で約一五分後に爆発するように時限装置をセットしたうえ、昭和五二年五月二日午後二時過ぎころ、同館三階法学部二六番教室東側階段踊り場北東隅付近に前記爆弾を設置し、同日午後二時一〇分ころこれを爆発させたが、本件爆発当時、右教室ではフランス法の講義が行われ、本田実ら約二五名の学生が受講していたほか、同館二階法学部二五番教室では約八〇〇名の学生が憲法の講義を受けており、その他の授業及び大学当局による一般事務も平常どおり行われていた。
(三) 被害状況等
本件爆弾は、大音響をあげて爆発し、法学部二六番教室後ろ(東側)から二列目右端の席(爆心地からの距離約六・二五メートル)に座っていた前記本田が、その衝撃により約二メートル前方に吹き飛ばされ、一回転するようにして同所床上に仰向けに倒され、判示第三の二記載のとおりの負傷をしたほか、次のような被害が生じた。
(1) 法学部二六番教室前踊り場付近の状況
爆心地である右踊り場北東隅付近のタイル張りの床には、南北約六七センチメートル、東西約一七センチメートル、最深部約五・五センチメートルの漏斗孔ができ、踊り場内の壁と柱はいずれも床面から上方約三〇センチメートルまでがコンクリート造り、その上方部分がしっくい造りとなっているが、東側壁下部コンクリート部分が南北約五六センチメートルにわたって三ないし五センチメートルの深さで削りとられているほか、東側壁及び北東隅柱の爆心地に面した側にはその下方を中心に高さ約一・六六メートル、幅約一・五六メートルの範囲で壁面の剥離やひび割れが生じており、踊り場南側及び西側の壁、柱にも多数の剥離痕や大きなひび割れが生じ、数個の金属片が突き刺さっているほか、南側壁面の上部(床上約三・〇七メートル)に取り付けられていた拡声器は破損し、かろうじてコードにより垂れ下がっている。
また、右踊り場及び階段部分の天井板(テックスボード)はほとんど落下し、天井は棹縁と廻り縁を残すのみであるが、その一部は破損し、数か所に金属片等が突き刺さっており、天井中央部に取り付けられていた螢光灯は破損して垂れ下がっている。踊り場北側の北東隅の柱から高さ約八九センチメートルで西側へ約二・三七メートルのびる小壁上に取り付けられていた厚さ約六センチメートルの木製手すりが約三センチメートル浮き上がり、右手すりの下の小壁上部に四か所剥離が生じ、同小壁の西端角部分が大きく(高さ約四八センチメートル、幅約五一センチメートルの不定形)えぐり取られている。
二階から三階に至る階段の中間踊り場北側及び西側にある窓の各金網入りガラスは、すべて破損し、そのほとんどが落下しており、鉄製窓枠にも一部破損や湾曲がみられる。右踊り場東南角に金属製ごみ箱及び金属製灰皿が、同じく西南隅に掃除用具入れの木製ロッカーが置かれていたが、これらはいずれも原形をとどめないほど変形、破損している。右階段及び中間踊り場の床上には、ガラス片、天井板の破片等が多数散乱し、右三階踊り場床上には、木片、金属片、ガラス片、天井板の破片等が一面に足の踏み場もないほど散乱している。
(2) 法学部二六番教室の状況
同教室には、前記踊り場西側壁ほぼ中央に高さ約二・一四メートル、間口約一・三九メートルの出入口があり、分厚い木製二枚扉が取り付けられていたほか、教室内部は、南端中央に教壇があり、金具により固定された学生用六人掛け木製長椅子兼机二六個(南北に横二列、東西に縦一三列)が配置されていたが、本件爆発により、右扉はいずれも吹き飛んで形骸をとどめておらず、右扉に取り付けられていた金具も教室内ほぼ中央の位置まで吹き飛び、右扉を固定していた壁側の木製枠もその周囲のコンクリートが破損して上部が教室内に傾いている。前記出入口から最も近い位置にある六人掛け長椅子兼机(爆心地からの距離約五・四メートル)の北側から三番目までの椅子の背もたれ部分が割れ、下部の固定金具が大きく湾曲し、四番目の椅子の背もたれに二個の貫通孔が生じている。また、同教室の南北両側の窓と正面(西側)の黒板北側にある腰高窓の各ガラスの大半が破損し落下しており、同教室北側東寄りにあるコンクリート柱の上部が天井から約九四センチメートル(幅約一五センチメートル)にわたって剥離しているほか、出入口寄りの天井板(テックスボード)二枚が破損している。
(3) 法学部長秘書室(二階)前踊り場付近の状況
右踊り場南側にある機械室の出入口の木製扉(観音開き)は、二枚とも蝶番の部分からはずれ、西側扉は右踊り場床上に倒れ、東側扉は右出入口東側の柱に倒れかかり、それぞれ破損し、同室内中央奥にある大型ルームエアコンの前面中央の鉄板が破損し、同室出入口東側の壁面にもひび割れが生じており、右踊り場西側にある法学部長秘書室出入口の二枚の扉(観音開き)のうち北側扉は中央が内側に曲がって凹損し、上下の止め金が曲がって破損している。
爆心地直下にあたる右踊り場東側壁天井部付近には、大きな破損が二か所生じ、そのうちの一つは南北約八四センチメートル、上下約二二センチメートルにわたってしっくい壁が剥離したうえ、コンクリートも一部脱落して鉄筋が露出しており、更に、右壁の裏側にあたる前記法学部二五番教室前ホール西側の天井付近(床面から約一・八五メートル)の壁面も、南北約一・六七メートル、上下約六三センチメートル、深さ約一二センチメートルの範囲にわたって剥離し、その破片が同所床上に落下して一面に飛散し、右壁面は鉄筋が露出している。また、法学部長秘書室から光庭上にかけられた法学部会議室に通じる廊下の窓のガラス(東側二枚及び西側一枚)が割れ、その破片が右廊下上に落下している。
(4) その他の状況
前記法学部長秘書室前踊り場から一階出入口前の小ホールへ通じる階段の光庭に面する北側及び西側窓の金網入りガラスは、その大半のものに無数のひびが入り、外側に湾曲し、一階の前記小ホールの床面一杯にテックスボードの破片等が散乱し、その西側壁面の窓ガラス三枚が割れ、同ホール北側及び東側壁面に貼付されていたベニヤ板が剥離し、北側のものは前方に約四九センチメートル傾き、東側のは床上に落下し破損している。
前記小ホールからアーケード側ホールに通じる廊下南側にある法学部第三演習室の扉(観音開き)西側の蝶番が破損し、その西隣の第四演習室の扉(西側)のガラスが抜け落ちて右廊下上に散乱し、同室内南側の窓ガラス一枚が割れ、その西隣の第五演習室ドア上部の止め金部分が破損しているほか、前記廊下突き当りの用務員室の扉のガラスが抜け落ち、その破片が右廊下及び同室内に散乱している。一階東側南寄りにある便所の南側窓ガラス三枚が割れているほか、アーケード側ホールの東側にある階段の光庭に面した窓ガラス二七枚が割れて一部落下し、光庭東側にある法学部二一番教室及び同二二番教室前ホールの窓ガラス六枚が破損している。
三階北側の法学部二七番教室側の状況をみると、一階から同教室前踊り場に至る階段南側の金網入り窓ガラス(数十枚)が南側から打ち抜かれたように破損し、同教室内南側の窓ガラス(五枚)が割れて、床面にもその破片が散乱し、同教室出入口の観音開きの扉の南側施錠部(受座部分)が破損し、右踊り場床上に落下しており、法学部二六番教室南側の窓下にあたる銀杏並木通り上にはガラス片が一面に散乱している。
4 三井アルミ社長宅爆破事件
(一) 爆弾の構造
本件爆弾の容器にはアルミニウム製圧力鍋(容量約二・四リットル、内径約一七・五センチメートル、深さ約一〇・一センチメートル)を使用し、前同様の混合比の塩素酸塩系爆薬約一・二ないし一・五キログラムをビニール袋に詰め、その中に前同様の豆電球等を用いて作製した起爆装置を埋め込んだものを右圧力鍋の中に入れ、その上下の際間に綿を充填し、起爆装置のリード線を鍋蓋中央部のノズル穴から出したうえ、圧力鍋の胴体と蓋を固定、密封するため、針金で厳重に縛り、更に、その上からモルタルを塗って強化し、右リード線に腕時計(ぜんまい式)を利用して作製した時限装置を結線し、単二乾電池二個を電源として使用した。
(二) 現場の状況等
被告人が爆弾を仕掛けた三井アルミ社長川口勲方は、閑静な住宅街にある木造瓦葺平家建家屋(床面積約一二二・一平方メートル)で、別紙図面(五)のとおり、北側にある幅員約五・一メートルの道路から約一メートル入った付近に右道路に面して、コンクリート・ブロック製の門柱一対(いずれも高さ約二メートル、太さ約三〇センチメートル角)と塀があり、右門柱には観音開きの木製門扉が取り付けられていて、本件犯行当時右門扉は閉められ、かんぬきがかけられていた。右門から南側に約二・五九メートル入った所に玄関(木枠ガラスはめ込み二枚引戸)があり、右玄関を入ると、東西及び南北にはしる廊下がそれぞれあって、玄関東側には右東西に通じる廊下に面して三畳間、台所等が、また、右廊下をはさんで南側には八畳間、六畳二間がそれぞれ存し、更に、玄関の南西側には、前記南北にはしる廊下に面して洋間(六畳)と応接間(八畳)があるが、右洋間の北側は出窓となっており、後記爆心地から右洋間北西隅までの距離は約六・九五メートルある。
本件犯行当夜、前記八畳間に川口勲とその妻が、東端の六畳間に同人の長男正昭が、また、前記洋間に娘京子がそれぞれ就寝していた。被告人は、川口方付近の公園道路で、約五〇分後に爆発するように時限装置をセットしたうえ、昭和五二年六月三〇日午前二時過ぎころ、同人方の前記西側門柱そばの門扉道路側付近に爆弾を設置し、同日午前二時五九分ころ、これを爆発させた。
(三) 被害状況等
被告人の設置した爆弾は、川口方家人が驚いて飛び起きるほどの大音響をあげて爆発したが、右爆発による被害状況は次のとおりである。
まず、爆心地である川口方西側門柱付近の状況をみると、右門柱東側のコンクリート製たたきが直径約四〇センチメートル、深さ約三〇センチメートルの大きさで漏斗状にえぐられ、その周囲のたたきにも損壊や亀裂がみられる。右門柱は、縦横各約三〇センチメートル、厚さ約二〇センチメートルのブロックを一〇段積み重ねたものであるが、下から三段目と四段目の接続部分及び七段目と八段目の接続部分にそれぞれ数センチメートルのずれが生じ、右柱東面の下一段目から二段目にかけて及び三段目の各ブロック及び西面の下四段目から六段目にかけてのブロックがそれぞれ大きくえぐり取られており、また、東面や右柱とブロック塀との接続部分などに最大幅約二・五センチメートルの亀裂が生じている。西側門柱から約一・七メートル隔てたところにある東側門柱も西側門柱と同様の造りであるが、下から二段目のブロック南西角が高さ約二〇センチメートル、幅約二二センチメートル、深さ約八センチメートルの範囲でえぐり取られたように損壊し、金属片二個が突き刺さっており、また、両門扉はいずれも取付金具のみを門柱に残して形骸をとどめていない。
玄関入口の前記ガラス引戸はいずれも飛散して、木枠のみが玄関内に倒れ、玄関東側の白壁は大部分が剥落して小舞が露出し、腰板の一部も折損ないし剥離して小舞をあらわにしており、門柱の下方が折れて内側に曲がり、内側の雨戸も敷居からはずれたうえ、下方の戸板が打ち破られているほか、玄関西側壁や玄関上部の白壁にも剥落や貫通痕がみられ、玄関上部の欄間のガラスは破損し、玄関ひさしの屋根瓦が数枚落下している。玄関内部にはガラス片、ブロック片、木片等が一面に散乱し、ガラス片の飛散は南北に通じる廊下の突き当りにある応接間内部にまで及んでおり、その他、玄関の上がりかまちは二か所えぐられ、玄関正面の壁面にある鏡のガラスは割れ、同壁面には多数のガラス片、金属片が突き刺さっているほか、同壁面下方に置かれていた木製花台の開戸に貫通痕がみられる。また、前記洋間の北側出窓の窓ガラスは二枚ともその大部分が破砕し、右出窓付近の床等に散乱しているほか、玄関東側に並ぶ三畳間、台所及び浴室の各北側窓ガラスも同様に破損し散乱している。
爆発の被害は付近の民家にも及び、川口方前北側道路を隔てて同人方のほぼ向い側にある斉藤博及び水上四郎の両家屋については、いずれも一階及び二階南側の道路に面した窓ガラスがほとんど破損して、家屋内、敷地内等にガラス片が散乱し、また、右家屋にそれぞれ付設されている各車庫のブリキ製シャッターにも多数の貫通孔や凹損が生じている。川口方の東西両隣などにある民家でも、爆心地に面した窓ガラスの破損等がみられ、また、爆心地から川口方前道路東西各四〇ないし五〇メートルにわたる路面上には、多数の金属片、プラスチック片等が散乱している。
5 神社本庁爆破事件
(一) 爆弾の構造
梨木神社爆破のときと同様の大きさの消火器を容器として用い、同様の混合比の塩素酸塩系爆薬約一・六キログラムをビニール袋に詰め、その中に前同様の豆電球等を用いて作製した起爆装置を埋め込んだものを右消火器の中に入れ、その上下の隙間にビニール片を充填し、その上にモルタルを詰め、右消火器の上部から出した起爆装置のリード線に懐中時計(ぜんまい式)を利用して作製した時限装置を結線し、単三乾電池二個を電源として使用した。
(二) 現場の状況等
被告人が爆弾を仕掛けた神社本庁は、国鉄渋谷駅の南東方約一一〇〇メートルの地点で住宅街の一角にあり、東西は民家等と、南は国学院大学院友会本部と隣接し、北は幅員約七・九メートルの道路を隔てて全国神社会館と向い合っており、その周辺には国学院大学、渋谷区立広尾中学校のほか、公団アパート、常陸宮邸、氷川神社などがある。本件爆弾の設置された神社本庁本館は、北側が道路に面する約一一〇九平方メートルの敷地(東西約三〇・七メートル、南北約三六・一五メートル)内の同道路から約六メートル南側に入った付近に建てられている鉄筋コンクリート造地下一階地上三階建建物であり、その南側に中庭(幅一・六八ないし八・一五メートル)を隔てて建てられている新館(鉄筋コンクリート造、三階建)と渡り廊下等で接続しており、本件当時の職員数は約四五名であった。
本館一階の状況は、概ね別紙図面(六)のとおりであり、正面玄関から本館南側出入口に向って、順次玄関ホール、一階ホール、財務部室前ロビーがあり、右両ホールの間は両開きの一枚ガラス入りアルミサッシ枠のドア(二枚)で仕切られているほか、一階には財務部室、小会議室、神社新報社事務室、小使室などがある。財務部室前ロビーは、東西約三・四五メートル、南北約四・七七メートルの広さで、東側の財務部室との間は、北側から透明一枚ガラス入りアルミサッシ枠の出入口ドア(高さ約一・九八メートル、幅約八九センチメートル)、次いで、床上約八八センチメートルの部分に透明ガラス入りアルミサッシ枠二枚引戸の受付窓口(高さ約九七センチメートル、幅約九八センチメートル)がそれぞれ設けられ、右受付窓口の下部及び南側はガラス張りの間仕切りとなっており、これらの上部にはガラス張りの天窓が入っている。そして、右南側のガラス張り間仕切り部分のロビー側には、二段重ねのスチール製ロッカーがほぼ右間仕切り部分を隠すような形で置かれており、また、同ロビー南西側には、応接用の椅子とテーブル及びスチール製の更衣用ロッカーとついたてが置かれていた。また、西側の小会議室との間はコンクリート壁で仕切られ、その北端に木製の出入口ドアが取り付けられていたほか、同ロビーの南北両側は、いずれも両開きの一枚ガラス入りアルミサッシ枠のドア(二枚)で仕切られ、南側は外部に北側は一階ホールにそれぞれ通じている。
そして、被告人は、国学院大学校舎内の便所で、約一五分後に爆発するように時限装置をセットしたうえ、昭和五二年一〇月二七日午前一〇時四〇分過ぎころ、右財務部室前ロビーの前記応接セットの南側に前記爆弾を設置し、同日午前一〇時五五分ころ、これを爆発させたが、右爆発時、前記財務部室では室員九名のうち塚本百合子ら五名が執務中であり、また、渋谷郵便局員伊藤誠喜が右財務部室に郵便物を配達し終えて正面玄関辺りを歩行していた。
(三) 被害状況等
本件爆弾は、前記財務部室で執務中の者に、間近に落雷があったと感じさせるほどの大音響をあげて爆発し、財務部室内一面にガラスの破片が降り注ぐように落下し、また、ガラスの破片が前記のとおり玄関辺りを歩いていた伊藤誠喜の身体を外へ押し出すような勢いで飛散し、その結果、別紙受傷者一覧表(二)記載のとおり、塚本百合子ら五名が負傷したほか、次のような被害が生じた
(1) 財務部室前ロビーの状況
爆心地である同ロビー南西部の床(コンクリートのたたきの上に約二四・四センチメートル角、厚さ約一・九センチメートルの寄木を張ったもの。)には南北約六八センチメートル、東西約三二センチメートルの範囲で最大深さ約一センチメートルの凹損痕ができ、その脇に置かれていた応接用テーブルは木製のテーブル板(縦約四四センチメートル、横約八九センチメートル、厚さ約四・四センチメートル)が鉄製の脚部からはずれ、応接用椅子四脚はいずれもばらばらに損壊して、その破片の一部は玄関ホールの手前まで飛散し、また、財務部室との間仕切りの手前にあった前記下段のスチール製ロッカー(幅約一・七六メートル、高さ約八八センチメートル、奥行約四〇センチメートル)の二枚引戸のうち一枚がはずれて床面に倒れ、他の一枚には鶏卵大ないし小石大の凹損痕が数か所でき、上段のロッカー二個(幅・高さ各約八八センチメートル、奥行各約三二センチメートル)はいずれも回転するようにやや斜めに位置がずれ、前面及び側面が凹損しているほか、前記更衣用ロッカー(スチール製・幅約九〇センチメートル、高さ約一・七九メートル、奥行約五一センチメートル)はその前面及び左側面が三ないし八センチメートル凹損し、背面が外側にふくらんでゆがんでおり、右ロッカーの北側にあった木製のついたては、板がすべてはずれ、木枠も破損して同所北西隅に倒れ、同ロビー南東隅にあった木製電話台も、脚の付け根部分が折れてはずれかかり、底板が割れ、右側面に穴があくなど破損し、更に、同ロビー南西隅にあった飾りケースのガラスもすべて破損し、金属製の縦枠と底部の桟が歪曲している。
財務部室との間の前記出入口ドア及び間仕切りの各ガラスはほとんどすべて割れ落ち、同室内など付近一面にその破片が飛散し、前記受付窓口に取り付けられていたアルミサッシの二枚引戸は脱落して財務部室内奥の床面に落下して破損し、右窓口のカウンター板は右ロビー床面に落下し、また、右ガラス張り間仕切りのアルミサッシの支柱等が財務部室側にやや傾き、右アルミサッシ支柱のコンクリート土台に亀裂や剥離(一ないし一・五センチメートル)が生じている。同ロビー北側出入口の両開き一枚ガラス(厚さ約五ミリメートル)入りアルミサッシ枠のドア二枚(各高さ約一・九八メートル、幅約八九センチメートル)のうち、東側のドアはその取付部からはずれて玄関ホールまで吹き飛び、そのガラスはほとんどすべて割れて飛散し、その枠も歪曲しており、同西側ドアもガラスがほとんど割れ落ちて飛散しているほか、その上部のドア取付枠がはずれ、その上の天窓ガラスは全部割れ落ち、天窓上部のコンクリート壁にはひび割れが生じている。
また、同ロビー南側出入口のドア二枚(北側出入口のドアとほぼ同様のもの。)のうち、西側のドアは取付部からはずれて中庭の貯水槽の上に飛ばされて落下しており、そのガラスは割れ落ち、そのサッシ枠は外側に歪み、その下部に貫通孔(約七×四センチメートル)ができており、更に、東側ドアのガラスは大半が割れて飛散し、上部天窓のガラスは全部割れ落ちている。前記小会議室の木製ドアは、北側の上下二か所の蝶番取付部の木が裂けて同室内に吹き倒され、南側の柱に埋め込まれていた右扉の鍵の受座金具も破損、脱落して、同室奥(南西側)に落下している。同ロビー天井(床面から約四・六五メートル)中央に取り付けられていた五灯式螢光灯は破砕されて落下し、同天井には飛散物が当たった数か所の痕跡がある。
(2) 財務部室の状況
同室内の床や机等の上には、一面にガラス破片等が散乱しているほか、南側の腰高窓のガラスは全部割れ、その破片が窓の外側下に飛散し、その西端にあるドアの金網入りガラスは外側にふくらむように割れ、右ドアの上の回転窓のガラスにはひび割れが生じ、東側の壁に据え付けられている戸棚の戸(二枚)がはずれ、はめ込まれていたガラスもほとんど割れ落ちて破損しており、更に、同室北東端にある出入口ドアやその西側の受付窓口のガラスも破損し、いずれもその破片が散乱し、同室の天井(床面から約三・二九メートル)の中央に取り付けられていた螢光灯の一本が破損している。
(3) その他の状況
一階ホール北側の両開き一枚ガラス入りアルミサッシ枠のドア二枚のガラス(厚さ約五ミリメートル)には破損やひび割れが生じ、その上部天窓のガラスは割れ落ちており、同ホールから東側に向ってのびる廊下(幅約一・七メートル)沿いにある湯沸し場天窓のガラス、右廊下と小使室前廊下との間を仕切っている両開き木製ドア二枚の上部半分にはめ込まれたガラス及びその上部の天窓のガラスは、いずれも割れて飛散している。同ホールの天井(高さ約三・二七メートル)南寄りに取り付けられたダクトに金属片が突き刺さり、また、南側の小会議室前に置かれていたガラス製陳列ケースのガラスが全面にわたり破砕されて付近に飛散している。
神社新報社の右ホールに面する二か所の木製ドア上半分にはめ込まれたガラスがいずれも割れ、同室内に置かれた木製机の引出しにガラス片が突き刺さり、また、その北側にある同社整理室の木製ドア上半分にはめ込まれたガラスが割れ、その破片が同室内に飛散し、右整理室南東脇にある同ホールから二階に通じる階段の中間踊り場の窓ガラスの一部が破砕され、付近にその破片が飛散し、更に、爆心地の真上にあたる本館二階教学部室南側のアルミサッシの窓枠に歪みが生じている。また、前記財務部室前ロビー南側のひさしと、新館への渡り廊下の屋根(いずれもビニール製波板)が破砕されて、その破片が付近に飛散している。新館の一階北側応接室のガラス戸の金網入りガラスが破損し、同室内にその破片が散乱し、同館一階廊下北面にある流しの金網入りガラス一枚がひび割れし、同館二階へ通じる階段踊り場、同館二階統理室及び同館三階会議室の各窓ガラスなどがひび割れている。本館正面玄関ホールや同ホール前の石畳、広場、道路上にも、ガラスの破片が飛散している。
6 東本願寺爆破事件
(一) 爆弾の構造
本件で使用した爆弾の構造は、梨木神社爆破事件に使用したものとその容器、爆薬の種類、起爆装置、時限装置ともにほぼ同様であり、爆薬量も東急観光爆破事件のときと同様の約一・五ないし一・六キログラムとされ、電源として単二乾電池が二個使用された。
(二) 現場の状況等
東本願寺は、国鉄京都駅の北方約四〇〇メートルの京都市のほぼ中心部に位置し、その東側は鳥丸通りに面し、付近には人家や商店等が密集している。被告人が爆弾を仕掛けた大師堂は、東本願寺の境内(東西約二〇〇メートル、南北約四〇〇メートル)のほぼ中央に位置する東西約五八メートル、南北約七六メートル、屋根の高さ約三八メートルの高床式木造瓦葺平家建の寺院建築物で、その内部の配置は、概ね別紙図面(七)のとおりであり、東側が正面出入口で、そこの階段を上がると、東側正面及び南北の両側に廻廊が巡らされ、内部との間は観音開きの木製唐戸やその内側の障子等で仕切られている。その内部は、正面から入って奥(西側部分)の約三分の一が内陣、その手前(東側部分)約三分の二が外陣と呼ばれており、外陣は畳敷き(七〇六畳)で各所に丸柱が立っており、一般参拝客は、外陣の中(右図面⑮からまでの柱の東側)まで入ることができる。
そして、被告人は、昭和五二年一一月二日午後三時過ぎころ、京都タワーホテルの便所内で、約五八分後に爆発するように時限装置をセットしたうえ、同日午後四時ころ、ガソリン約一〇リットルとエンジンオイル約四リットルの混合したものを一〇リットル入り及び五リットル入りの各ポリタンクに入れたうえ、一〇リットル入りポリタンクを入れたショルダーバックと、五リットル入りポリタンクと本件爆弾を入れたスポーツバッグとを、大師堂外陣北寄りにあるけやき丸柱(直径約七五センチメートル、右同の柱)の南西側畳上に並べて置き、同日午後四時三分ころ、これらを爆発炎上させたが、右大師堂内には、本件爆発当時、前記唐戸を北西隅のものから順次東に向って閉めていた同寺職員山中竹雄がいたほか、爆発直前のころまで、三名の参拝客がいた。なお、当時、東本願寺の閉門時刻は午後四時三〇分であり、大師堂の唐戸は本件犯行当日と同様、午後四時ころ閉め始めるが、参拝客は閉門時刻ころまで堂内にいることがある。
(三) 被害状況等
本件爆弾は、大音響とともに粉塵をまき上げて爆発し、次のような被害を生ぜしめた。まず、爆心地脇の前記丸柱は、東西に走る幅約九〇センチメートルの張板(厚さ約六センチメートル)の中にあり、その両側は畳敷で、右張板と畳の下には厚さ約四・五センチメートルの床板が張りめぐらされているが、爆心地に敷かれていた畳一枚は約二・一メートル南側に吹き飛んで裏返しとなり、爆心地点にあたると思われる箇所の畳の部分が縦約四二センチメートル、横約二五センチメートルにわたりほぼ半円状に破壊されているほか、爆心地点から南北及び西方向の畳約三七枚分ほどが燻焼している。また、爆心地にあたる前記丸柱南西側床面は、右張板部分から畳敷部分にかけて、東西約五五センチメートル、南北約八五・五センチメートルにわたって抜け落ちており、前記丸柱北側にある張板の継ぎ目部分がずれて、丸柱との間に幅〇・八ないし一・二センチメートルの隙間ができ、また、前記丸柱南西面下部には、上下一二ないし一五センチメートル、左右約一七センチメートルの凹損や多数の擦過痕がみられ、前記丸柱南側の畳下の床板に打ちつけられていた多数の釘が最大のもので約一・六センチメートル浮き上っている。
廻廊と内部とを画する障子は、南側を除きほぼ全面的に破れており、前記山中が閉めた北側の唐戸や右同⑱と⑲の間の忌戸等も、爆風によりあおり錠や落し錠の破損を伴って開け放たれたり、吹き飛ばされて横倒しになったりしている。爆心地のほぼ北に位置する唐戸(右同⑮と⑯の間のもの。)には幅約四・五センチメートル、長さ約七センチメートルの貫通孔ができ、爆心地と右貫通孔を結ぶ線の延長線上にある北側廻廊の格子戸も破損し、右唐戸の西隣りに位置する板壁に消火器片が突き刺さっており、また、内陣と外陣との境にある障子(金障子)のうち、爆心地に近い部分は全面にわたり破れ、内陣北側に位置する御簾の間と外陣との境にある下段の格子戸が敷居からはずれて脱落している。
天井(畳上から高さ約八メートル)には約六〇センチメートル角、厚さ約三センチメートルの天井板がはめ込まれ、長さ約一〇センチメートルの釘で固定されているが、爆心地から南西部分の天井を中心に、天井板が多数はずれていて、爆心地付近の天井板の木枠には消火器片、プラスチック片等が突き刺さっているほか、爆心地点から約四五メートル離れた大師堂の北側にある高廊下の屋根の梁に消火器上部の破片が飛散して痕跡を残し、また、爆心地点から約四三・五メートル離れた大師堂正面階段前にも消火器片の飛散がみられる。
三 爆弾の威力に関する被告人の認識
関係証拠によれば、次の各事実が認められる。
1 被告人が爆弾闘争を決意するに至った経緯についてみると、前記「犯行に至る経緯等」で認定したとおり、被告人は、当初明治天皇陵等に対してペンキによる汚損等を行っていたものの、その際、犯行声明が全く報道されなかったため、これを権力による黙殺と受けとめ、黙殺されることのない闘いとして、平安神宮に対する放火を行ったが、このときの犯行声明等もほとんどマスコミに取り上げられなかったことから、決して黙殺されることのない闘いとして爆弾闘争を選択し、それに踏み切ったというものであって、闘争手段として社会に与える影響力のより大きいものを順次採用し、ついに爆弾を用いるに至ったものであり、被告人の本件各爆弾闘争が、各爆破対象物を破壊するなど無視し得ない結果を生ぜしめ、社会に衝撃を与えてその耳目を聳動させ、声明文と合わせて、自己の闘争目的を社会に知らしめる意図の下に敢行されたものであること、
2 被告人が爆弾闘争を決意するに至る過程で、東アジア反日武装戦線によるいわゆる連続企業爆破事件、北海道警察本部爆破事件、北海道庁爆破事件等多数の死傷者を出した爆弾事件が相次いで起り、とりわけ被告人は、連続企業爆破事件が起った当初は、ガラス片の飛散等により多数の死傷者を出したことなどから、これに批判的であったものの、最終的には、前記経過をたどって、これらの事件にならって爆弾闘争に踏み切ったものであること、
3 被告人は、連続企業爆破事件が開始された後の昭和四九年秋ころ、爆弾教本である前記「腹腹時計」及び「薔薇の詩」の各写しを入手し、可児町事件の際、これらを派出所に残したまま逃走したものの、再び「腹腹時計」を入手して、これらに基づいて判示のとおり各爆弾を製造・使用したものであるが、右各写には次のような記載部分がある。
(一) 「火薬について知ることは武装の基本である。」、われわれの、火薬の使用目的は、「爆破、対人殺傷用爆弾の装薬」等である旨の記載(腹腹時計第一章第三篇「技術」の項)。
(二) 塩素酸塩系爆薬は「安全で威力もある」旨の記載(同項)。
(三) 「火薬、雷管、時計。この三つの要素を完全に習得すれば、相当強力な爆発物を作ることができる。」旨の記載(同第二章「展開」はしがき)。
(四) 「火薬などの爆発は、爆風、衝激波、高圧高熱ガス、破砕片の激突などの巨大なエネルギーを生じさせる。」、一般的なコンクリート、金属等の構造物を対象とした場合、「砂糖で代用した火薬は五キログラム単位ぐらい使わないと威力は望めない。塩素酸カリウムを主剤にした火薬、爆薬を混合し併合するならば、より良い結果を引き出しうる。」「対人殺傷用で、確実にその人間に接近して爆発させる場合は、この十分の一程度でよい。」、「閉塞された場所―マンホール、小部屋、自動車内、冷蔵庫内等では、開放された場所―屋外等より破壊力は大きい。従って同じ仕掛けるならば、閉塞された場所を選ぶ。」「容器の材質は鋼鉄が最上、その他、鋳鉄、アルミ、コンクリート等。理想的な形状は1ボンベ状、2管状、3角柱状の順である。火薬をつめる口はネジ状が良い。」等の記載(同第二章第一篇「爆破」の項)。
(五) 作戦準備として「破壊あるいは殺傷、放火を効果的に引き出せる条件」に関する事前調査が必要である旨の記載(同章第二篇「作戦の一般的原則」の項)。
(六) 塩素酸塩系爆薬は「威力が大きく、製法が簡単なので手製では最高品である。」旨の記載(薔薇の詩Ⅱ爆薬類の項)。
以上の各記載部分の大半には、被告人によって線がひかれており、被告人がこれら諸事項について熟読、検討を加えていたことが明らかであること、
4 被告人は、爆弾事件を敢行したつど、その報道に注意を払い、当然被害状況についても各種の報道を通じて認識していたものとみることができるが、最初の梨木神社爆破事件において相当な物的被害が生じたにもかかわらず、東急観光爆破事件においては、爆薬量をほぼ倍増した爆弾を製造して、市街地の雑居ビルで白昼使用し、更に、右事件で六名の負傷者を出したにもかかわらず、東大爆破事件では容器も大幅に大型化し、東急観光爆破事件の約二倍近い爆薬を用いた爆弾を製造したうえ、これを使用して負傷者を出し、それ以降も、同種の爆薬を用いた爆弾を製造したうえ、繰り返し使用していること、
以上のような、被告人が本件各爆弾闘争を行うに至った経緯、同種他事件からの影響、爆弾教本等による学習、本件各爆破事件に使用された爆弾の構造や使用状況及び報道等による被害状況に関する認識等の各事実に徴すれば、被告人は、本件各爆弾が人を殺傷し、あるいは建物を破壊する等の強大な威力を有するものであることを十分認識していたものというべきである。
四 被告人の自白の信用性
被告人は、捜査段階において、身体加害等の目的や傷害の故意の点を含め、判示第二、第三の一ないし五の各事実全般について、いずれもこれを自白していながら、公判段階において、前記各目的や故意の存在を否定し、これを争うので、以下検討する。
1 捜査段階の自白について
被告人は、前記「犯行に至る経緯等」で認定したとおり、寿荘誤爆事件を起こして逃走中、前記ライヒの思想やラジニーシズムの影響を強く受け、自らの敢行してきた人身被害や建物破壊をもたらすような闘争が誤りであったと自覚、反省し、反日思想から離脱していったのであるが、昭和五八年五月一六日に寿荘誤爆事件で逮捕された後、間もなく、自らの闘争過程やその後の思想変遷をかつての友人たちに伝えたいとの願いなどから、判示各事実を全面的に自白するに至っている。
右自白調書をみると、その動機、下見や爆弾作製等の準備の状況、犯行当日の行動、犯行後の状況等につき、事細かにかつ被告人の当時の心理状態等を折りまぜながらの供述がなされており、その内容も合理的であるうえ迫真性もあり、他方で、被告人が被害を限局するために配慮したり、犯行を躊躇したことなど被告人に有利な諸点も録取され、また、被告人の記憶のあいまいな点はあいまいなものとしてそのまま記載されているのであって、取調に際し、不当な誘導等のなされた形跡も見あたらない。
そして、これまで検討してきた被告人が本件各爆弾闘争を敢行するに至った経緯、爆発物についての知識、使用した各爆弾の構造、設置状況等に徴すれば、本件各犯行に際し、身体加害等の目的や傷害の故意を有していたとする被告人の自白は、右の各状況等に即応する極めて自然で合理的なものであり、優に措信し得るものということができる。
2 公判段階の供述について
これに対し、被告人は、公判段階に至って、本件各爆破事件につき、財産加害目的を有していたことについては概ねこれを認めながら、身体加害目的や傷害の故意についてはいずれもこれを否定して、次に述べるようにそれぞれ弁解している。
(一) 東急観光爆破事件について、当初前記中村屋ビル二階事務室前フロアのエレベーター前に爆弾を仕掛けるつもりであったが、これを同フロア北東隅に変更したので、爆発しても事務室出入口ドアのガラスはそれほど飛ばず、同室内のカウンターの手前あたりでとまるだろうと思った旨供述し、また、爆発する際に人が近くを通ったら大怪我をすると思ったことは肯定しながら、一階から二階に行く途中で男の人とすれちがい、これで、爆発時には付近を人が通ることはないと確信した。同フロア南側の窓ガラスが破損し、同所南側の道路に落下するとは思ったが、爆発時通行人も少なく、怪我をすることもないと思っていた旨供述する。
(二) 東大法文一号館爆破事件について、負傷者を出した東急観光爆破の場合よりも爆薬量を増やしたのだから、注意を払わないと人に傷を負わせると思ったと認めたうえ、自分では十分気をつけてやったので負傷者が出たのは意外な結果である旨供述する。
(三) 三井アルミ社長宅爆破事件について、一度門扉の内側に爆弾を置いたが、ここでは洋間に人が寝ていると怪我をさせるかもしれないと思い、門扉の外側に置き直したので、門柱や門扉に遮蔽されて爆風は洋間の方に向わないから、川口宅の人に怪我を負わせることもないし、深夜で道路を人が通らないときを選んだので、通行人や近隣住民が傷つくとも思わなかった旨供述する。
(四) 神社本庁爆破事件については、被告人も、人を傷つけるかもしれないと思っていたことは一応認めているが、ただその程度についてはロビーに置くと事務所に居た人たちがガラスの破片で傷つくんじゃないかと思ったが、ガラスの擦り傷くらいは傷のうちに入らないんじゃないかというふうに思っていた旨供述する。
(五) 東本願寺爆破事件について、爆発時には、大師堂の唐戸を閉めていた同寺職員は、北東の隅あたりにおり、爆弾を置いた柱の陰になり、また、三人の参拝客も大師堂を出て靴を履いたりしているところで、いずれも爆弾の影響がないと思った旨供述する。
しかしながら、前記各犯行現場の状況、各爆弾の構造、威力及び各犯行時の前までに使用された爆弾による被害状況などの認識、特に、右(一)については、白昼繁華街にある雑居ビル内で営業中の事務室前の階段踊り場で爆発させており、爆破直前に同室内の従業員や通行者の存在を現認していること、右(二)については、右(一)の事件で負傷者を出していながら、それよりもはるかに強力な爆弾を、学生等の現在することを確認した教室前階段踊り場で爆発させていること、右(三)については、右(一)、(二)の各事件でいずれも負傷者を出したのに、夜間とはいえ、住宅街の狭い路上で前記の爆弾を使用していること、右(四)については、右弁解自体、身体加害目的、傷害の未必的故意を肯定しているものといえるうえ、ガラス張りの間仕切りや、ドア越しに執務中の事務員を現認しながら、その前の狭いロビーで直後に前記爆弾を爆発させていること、右(五)では、右(一)、(二)、(四)の各事件でいずれも負傷者を出しており、しかも、東本願寺の職員、参拝客が直前まで爆破建物内に現在していたのを認識していながら、爆弾を使用していることなど、被告人の公判供述によっても肯認し得る諸事情をも考慮すると、被告人の右各弁解は、いずれも不自然、不合理であって到底措信し得ない。
五 以上検討してきたところを総合考慮すれば、本件各爆破事件(判示第二、第三の一ないし五の各事実)に際し、被告人は、治安を妨げ、人の財産を害することについては、これを確定的に認識しており、また、人の身体を害することについても(但し、梨木神社爆破事件を除く。)、少なくとも未必的な認識・認容があったものと認めるのが相当であるから、被告人は、判示第二、第三の一ないし五のとおり、本件各犯行において、治安妨害及び身体財産加害の各目的を有しており、負傷者を出した東急観光爆破事件、東大爆破事件及び神社本庁爆破事件においては、暴行、傷害の故意をも併せて有していたものというべきである。
第四寿荘誤爆事件における爆弾の爆発物性及び爆発物取締罰則三条所定の各目的の有無について
一 本件爆弾の爆発物性について
1 弁護人は、爆発物取締罰則にいう爆発物とは、同罰則が極めて重い法定刑を定めていることや、構成要件要素である治安妨害等の目的と合理性に関連付けられたものであるべきことなどからすると、広範囲かつ無差別的な人の生命、財産に危険を与える程度の威力を有するものに限ると解すべきところ、本件の爆弾は、爆薬量も少なく、その容器も脆弱であり、誤爆時の被害状況も軽微であったことなどに照らせば、公共の安全や人の身体財産を害するに足る爆発力すら有していなかったのであるから、同罰則所定の爆発物には該当しない旨主張し、被告人も公判段階に至ってこれに沿う供述をするので、以下検討する。
2 関係各証拠によって認められる本件爆弾の構造、誤爆時の状況等は、以下のとおりである。
(一) 爆弾の構造
本件爆弾の構造は、容器として、ブリキ製で一平方センチメートルあたり一三キログラムの耐圧強度を有する東洋エアゾール工業株式会社製のガラスクリーナー「グラスターゾル」三一〇CC入りの空缶を用い、その中にビニール袋に詰めた前記梨木神社爆破の際と同様の塩素酸塩系爆薬約一〇〇グラムを入れ(爆薬量につき、被告人は、捜査段階では、はっきりした記憶がないなどと供述しているが、当公判廷においては、約一〇〇グラムであった旨供述していること、被告人の検察官に対する昭和五八年五月二七日付供述調書添付の被告人作成にかかる右爆弾の図面では爆薬量が容器の容量の三分の一強となっていること及び後記鑑定結果等を総合すると、本件爆弾の爆薬量は前記のとおり認定するのが相当と認められる。)、その上下の隙間にティッシュペーパーを詰め、右爆薬中に、ガス点火用ヒーターの先端部にマッチの頭薬を発火薬として封入してリード線をハンダ付けした起爆装置を埋め込み、右リード線を右容器上部から出したうえ、右容器の上部にセメントを詰め込んで密封、固定し、右リード線に携帯用タイマー(ぜんまい式)を利用した時限装置を接続させ、電源として単三乾電池二個を利用したというものである。
(二) 誤爆時の状況
本件爆弾は、判示第四記載の寿荘(東西約一一メートル、南北約四・九メートルの木造二階建共同住宅・計八部屋六世帯)一階東端にある被告人方四畳半居室(室内の状況の概要は別紙図面(八)のとおり。)において、被告人がこれをこたつ板の北側縁中央やや西寄り(図面×点)に容器を横倒し(缶頭部を東向き)に置いて点検中、誤って通電させたため爆発したが、その際の状況は以下のとおりである。
(1) 爆弾の容器は、メガネと称する上蓋(缶頭部)、胴体部、底蓋(缶底部)の三部分に裂断し、缶頭部はコンクリート塊が付着した状態でこたつの北東側(図面A点・×点からの距離約一メートル)に、胴体部は側面の継ぎ目が完全にはがれた状態でこたつの南西側(図面B点・×点からの距離約一メートル)に、缶底部はかなり変形した状態で居室北西側にある土間(図面C点・×点からの距離約二メートル)にそれぞれ飛散し、また、爆発時に爆弾の脇に置いてあった糞尿の入ったポリ容器は火力で溶けて破損した状態でこたつの南東側(図面D点・×点からの距離約一メートル)に落下している。
(2) 本件爆弾が置かれていた合板こたつ板(約七五センチメートル四方、厚さ約一・六センチメートル)の北側縁中央やや西寄りの部分が、最大幅、表側で東西約一四・五センチメートル(裏側では約一九センチメートル)、南北約四・八センチメートルにわたってほぼ台形状にえぐり取られて穴があき、その木片がこたつ北側のこたつ布団や畳の上に落下、飛散し、右えぐり取られたこたつ板の周辺部分の表面にも円形状に亀裂が生じ、また、右こたつ板のプラスチック製の縁取りの北側部分はこたつ板から剥離し破損している。
(3) 爆発地点の北西約二メートルの位置にある同室西側壁に約一メートル四方の範囲で爆薬の一部が飛散し、当該部分に爆薬を包んでいたビニール袋の細片が燃え縮んだ状態で無数に付着し、そのほぼ中央(図面E点・畳からの高さ約四五センチメートル)に長さ約四センチメートルの金属性ようのものが突き刺さったものと認められる細い傷跡があり、更に、その北側の柱や土間の西側壁にも爆薬の一部が飛散している。また、同室北東側にある壁の図面F点(畳からの高さ約六二センチメートル)には、長さ約七センチメートル、深さ約〇・五センチメートルの金属性ようのものが突き当ってめり込んだ凹損が生じ、爆弾の容器内に詰めていたティッシュペーパーの一部が同室内に飛び散って燃えている。
(4) 右爆発により、こたつの北側に座り本件爆弾を点検作業中の被告人が着ていたジャンバーの右袖口付近のかなりの部分が焼損したほか、被告人は、右顔面及び右手に火傷を負い、また、一か月くらい右耳の聴覚に異常をきたし、右誤爆時から五年半を経過した昭和五八年六月二日に行われた身体検査の際にも、右手背部(小指先端から約一二センチメートルの部位に長さ約五ミリメートル、幅約二ミリメートル)及び右手首部内側(小指球部脇に長さ約七ミリメートル、幅約一ミリメートル)には、右誤爆時に爆薬が入ったために生じた黒褐色の入墨よう各傷痕が、また、右手首部の傷痕の前腕よりには右誤爆時に生じた火傷の円形状の傷痕(直径約一・五センチメートル)が、それぞれ残っていた。
(5) 寿荘二階西端の一〇号室に在室していた大塚文二及び同私子の両名は、大きな爆発音とともに建物が揺れるのを感じ、また、寿荘の北東に位置する住宅内に居合わせた長沢潤子も、自動車のドアを思いきり閉めるときの音よりも大きいと感じる爆発音を聞いた。
(三) 鑑定結果
鑑定人福田廣は、爆薬量を一〇〇グラムとして、本件爆弾と同様の構造の爆弾二個(A・B)を作成し、次の各実験を行った。
(1) 爆弾Aについて、長さ約七〇センチメートル、太さ約八・四センチメートルの角材で正方形に作った枠の上にこたつ布団をかけ、その上に乗せた合板製こたつ板(約七五センチメートル四方、厚さ約一・六センチメートル、前記現場のものと同様の材質のもの。)の一辺の中央あたりに、辺縁に沿って爆弾の容器胴体部の継ぎ目を下向きに横倒して置き、右爆弾の位置を中心として、約九〇センチメートルの距離をとって、その四方及び天井部をベニヤ板(一枚の長さ約一・八メートル、幅約九〇センチメートル、厚さ約三ミリメートル)で四角に囲ったうえ爆発させた結果は、次のとおりである。
(ア) 爆弾の容器は、缶頭部、胴体部、缶底部のそれぞれの継ぎ目から三部分に裂断し、更に、胴体部はほぼ五片に分れた。
(イ) 右こたつ板は、右爆弾設置位置の縁に沿って長さ約一七・五センチメートル、中心部に向かって最大幅約七・六センチメートルの範囲で台形状にえぐり取られて穴があき、その部分の板は破砕して落下し、プラスチック製の縁取りも剥離して破損した状態となった。
(ウ) 爆発の際、缶体内部に詰めていたティッシュペーパーは着火して飛散した。
(エ) 右爆弾容器の破砕片のうち、缶頭部は右爆弾設置位置の缶頭部側のベニヤ板を貫通し、約四×七・四センチメートルの穴をあけ、缶底部は同缶底部側のベニヤ板を貫通し、約六・五×五センチメートルの穴をあけ、胴体部の五つの破片も、右爆弾の胴体部右側天井部(二片約一三×五・二センチメートル、約八×〇・九ないし二・五センチメートルの各貫通痕)、同左側天井部(二片約一×三・二センチメートル、約九・五×四センチメートルの各貫通痕)及び同左側面上部(一片約一二×〇・五ないし五センチメートルの貫通痕)のベニヤ板をそれぞれ貫通し、右各破砕片は爆発ピット(約四メートル四方、高さ約三メートルの実験室)内壁の鉄板に衝突して各破砕片にその痕跡を残した。
(オ) 右爆弾から約二・三メートル離れた位置(ベニヤ囲いの外側)での爆発時の音量は一三五デシベル(飛行機の離着陸時におけるその直下での音量は一一〇ないし一二〇デシベルである。)であった。
(カ) 右爆弾設置位置の胴体部右側面のベニヤ板には、貫通孔や衝突痕は生じなかった。
(2) 爆弾Bについて、右Aと同様の爆弾を着色水を充満させ密封したポリエチレン容器(容量一リットル)と抱き合わせて横向きにし、薄手ナイロン製バッグ二個で包んで布製ガムテープで固定し、それを厚手布製バッグに入れたもの(ポリエチレン容器を上、爆弾を下にし、爆弾容器の胴体部の継ぎ目を下向きにしたもの。)を前同様の角材枠の上にのせたベニヤ板(約七〇センチメートル四方、厚さ約六ミリメートル)の中央に、爆弾容器が右ベニヤ板と接するように前記厚手布製バッグをひもでつるし、周囲を前同様ベニヤ板で囲って爆発させた結果は、次のとおりである。
(ア) 爆弾の容器は、胴体部の継ぎ目の部分が開き、缶頭部と胴体部分とは一部分を残して裂断し、缶底部は胴体部と完全に分離し、右爆弾設置位置の缶底部側ベニヤ板を貫通して右ベニヤ板に約七×三センチメートルの穴をあけ、更に、爆発ピットの側壁鉄板に衝突して破片にその痕跡を残した。
(イ) 前記着色水入りポリエチレン容器は、その胴体部が圧迫されて底部が破裂してその一部が欠損し、中心から周辺に向って放射状の亀裂が生じ、着色水は、主に右爆弾設置位置左四五度後方のベニヤ板交差部上方及びその天井部分と頭部側ベニヤ板上方及びその天井部分に飛散した。
(ウ) 前記ナイロン製バッグ二個と厚手布製バッグは、いずれもほとんど復元不可能なまでに破片化し、そのうちのいくつかの布片または右バッグに取り付けられていた金具類等が飛散して、周囲のベニヤ板に七個の貫通孔(右爆弾設置位置の胴体部左側に約三×三センチメートルと約一×一・二センチメートルのもの、同缶底部側に約一・五×一センチメートルのもの、同胴体部右側に約二×〇・五センチメートルと約〇・八×〇・八センチメートルのもの、同缶頭部側天井部に約二×〇・五センチメートルと約三×〇・五センチメートルのもの。)を生ぜしめた。
(エ) 右爆弾を置いた下側ベニヤ板には約二五×二三センチメートルの穴が生じた。
(オ) 右爆弾から約一・九二メートル離れた位置(ベニヤ板囲いの外側)での爆発時の音量は一三六・五デシベルであった。
右各実験結果及び証人福田廣の当公判廷における供述によると、右爆弾Aに比して同Bの容器の破壊、飛散の程度は小さいが、これは梱包されたバッグ等の破壊や着色水入り容器の飛散等に爆発力の一部が消費されたためであって、爆発物の威力としては右A・Bともに同程度と認められる。そして、右爆弾Aはもちろん、同爆弾よりは容器の破壊、飛散の程度の小さい同Bにおいても、一メートル以内の近距離では、容器の破片の飛散等によって、人の身体に重大な損傷を与える程度の威力を有するものと認められる。
(四) 右各実験結果と本件誤爆時の状況、特にこたつ板や爆弾容器の破損状況、各破片の飛散状況、糞尿容器と着色水入り容器の破損、飛散状況等を比較対照すると、本件爆弾は、右爆弾A・Bとほぼ同程度の威力を有していたものと認めるのが相当である。
弁護人は、本件爆発により、こたつ板の上に置いてあった物品や同室の窓ガラス等も全く破損していないうえ、爆弾の直近にいた被告人の受傷の程度も軽微であり、こたつをはさんで向い側にいた太田早苗も何らの傷害を受けなかったことなどを理由に、本件爆弾の威力は極めて小さかった旨主張するけれども、前記鑑定結果や証人福田廣の当公判廷における供述からも明らかなように、爆弾の容器に本件のようなスプレー缶を用いた場合、スプレー缶の特性や爆弾の位置などによって、その威力の及ぶ方向がかなり限定されることがあり得るところ、本件爆弾の場合は、こたつ板の破損状況、爆弾容器の破片や爆薬の飛散状況等の誤爆時の状況及び前記鑑定結果、特に、爆体のみの爆発で、本件爆弾よりも若干その破砕力が強かったと認められる前記爆弾Aの実験結果でも、被告人のいた側に対応する右側面のベニヤ板には、何ら貫通孔、衝突痕が生じておらず、缶頭部、缶底部はそれぞれその方向(誤爆現場の東西方向に対応する。)のベニヤ板を貫通し、その他の貫通孔は左側面の最上部及び天井部に生じていることなどに照らすと、その威力は、主として横向きに置かれていた容器の下方(こたつ板の方向)のほか、缶底部及び缶頭部の方向(東西方向)に強く及んだものと認められるから、弁護人指摘のような状況の存在は、本件爆弾の威力を前記のように認定する妨げとはならない。
3 以上のような本件爆弾の構造、誤爆時における爆弾容器の裂断及び飛散状況、現に生じた人的・物的被害の状況、付近住民の反応、本件爆弾と同様の爆弾を用いての前記鑑定の結果等に照らせば、本件爆弾は、その爆発作用そのものによって、公共の安全を乱し、または、人の身体財産を害するに足る破壊力を有するもの(最大判昭和三一年六月二七日・刑集一〇巻六号九二一頁。)と認められ、爆発物取締罰則にいう爆発物に該当することは明らかであるといわざるを得ない。
二 治安妨害、身体財産加害の各目的の有無について
1 弁護人は、被告人が本件爆弾を明治神宮に設置しようとしたのは、その爆発により明治神宮という聖域に糞尿を飛散させて、これを汚すということに象徴的な意味を持たせるためであって、人の身体や財産を害することを企図したわけではなく、そのために右の意図にかなう程度の威力の小さい爆弾を製造したものであるし、その使用方法も、これを糞尿入りのポリ容器と抱き合わせて梱包し、手提かばん等に入れたうえ、ある程度人から離れた所に設置して爆発させようと考えていたものであるから、被告人には、爆発物取締罰則三条所定の目的はなかった旨主張し、被告人も公判段階に至って、右主張に沿う供述をしている。
2 しかしながら、被告人及び共犯者太田早苗は、捜査段階において、本件爆弾の製造、所持に際し、これを明治神宮で設置、使用することにより、ひろく社会に対し自分達の闘争が伝えられることを企図し、そのためには参拝客等が怪我ぐらいするとしても、それはやむを得ないと思っていた旨一致して明確に供述しているところ、右各供述については、被告人、弁護人ともにその任意性の存在を特に争っていないだけでなく、その供述内容をみても、捜査段階におけるその余の部分ともども極めて具体的かつ詳細であって、本件犯行当時の状況にも即応していて自然で合理性があり、しかも、被告人が自ら認めているように、右各供述時における被告人の供述態度ないし心理状態が、自己の行為を真しに反省し、素直に取調に応ずる状況にあったことなどをも考慮すれば、被告人らの前記各供述部分はいずれも優に措信し得るものというべきである。
そして、本件爆弾闘争を決意するに至った経緯・目的が前記のとおりであること、設置予定場所及び日時が多数の初詣客で賑わう元旦の明治神宮拜殿近くであること、製造、所持した本件爆弾の威力が前記認定のとおりかなり強力なものであり、かつ、被告人はもとより太田についても、それまでの一連の爆弾闘争やこれに関する報道等により、右爆弾の威力についておおよその認識を有していたものと認められることなどの諸点をも併せ考察すれば、被告人らが本件爆弾を製造、所持するに際し、爆発物取締罰則三条所定の治安妨害及び身体財産加害の各目的を有していたことは明らかというべきである。なお、被告人や弁護人は、本件爆弾は、布製手提かばんに入れるなど厳重に梱包して設置しようとしたので、その威力も軽減されるはずであるから、被告人には身体加害等の目的はなかったというが、そもそも被告人らが本件爆弾をかばんに入れて設置することを具体的に考え始めたのは、爆弾が完成した昭和五二年一二月三〇日ころであるうえ、前記鑑定結果や設置目的及び設置予定時刻・場所の状況等に照らせば、右のような措置をとったことを理由として、身体加害等の目的を有していなかったとする被告人の右弁解は甚だ不自然・不合理であって、到底措信するに足りない。
第五自首の成否について
弁護人は、本件各事実のうち、平安神宮放火事件及び梨木神社、東急観光、東大法文一号館、三井アルミ社長宅各爆破事件については、その犯人が捜査機関に発覚しておらず、昭和五八年五月一六日、被告人が寿荘誤爆事件で逮捕された後、自発的に右各事件を供述して初めて明らかになったのであるから、右の五件が仮に有罪であるとしても、これら各罪について自首が成立する旨主張するが、警視庁公安部配属中に本件捜査を担当した証人坂口清の当公判廷における供述によれば、警視庁公安部では、被告人が前記「コンミューンみのかも」のメンバーらとともに、昭和四九年ころ「部族戦線」と名乗って活動し、その後潜伏したことや、前記可児町事件で全国に指名手配されたことなどを把握していたが、東本願寺爆破事件が起った段階で、それまでの事件の声明文や爆発物組成物件等の分析により、その思想的背景や爆発物の類似性等から、右一連の事件は被告人もしくは部族戦線のメンバーらによる犯行との見方を強めていたところ、寿荘誤爆事件が起きて、寿荘の被告人方から押収された書籍類その他多数の証拠品等の分析、検討をすることにより、本件各事件に被告人が関与していたことを確知するに至っていたものであることが認められ、これらの事実によれば、自首を主張する前記五件については、刑法四二条に定める自首の要件のうち「未タ官ニ発覚セサル前」との要件を欠き、自首が成立しないことは明らかであるから、弁護人の主張は理由がない。
(法令の適用)
被告人の判示第一の所為は刑法一〇八条に、判示第二、第三の三、五の各所為はいずれも爆発物取締罰則一条に、判示第三の一、二、四の各所為中、爆発物使用の点はいずれも右同条に、各傷害の点はいずれも刑法二〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号に、判示第四の一、二の各所為はいずれも刑法六〇条、爆発物取締罰則三条にそれぞれ該当するが、判示第三の一、二、四の各爆発物使用と各傷害とは、いずれも一個の行為で数個の罪名に触れる場合であるから、同罰則一二条、刑法一〇条(なお、判示第三の一、四については、同法五四条一項前段付加。)によりそれぞれ一罪として、いずれも最も重い爆発物使用の罪の刑で処断することとし、各所定刑中判示第一ないし第三の一ないし五の各罪については有期懲役刑を、判示第四の一、二の各罪については懲役刑をそれぞれ選択し、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により刑及び犯情の最も重い判示第三の四の罪の刑に同法一四条の制限内で法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役一八年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中八〇〇日を右刑に算入し、訴訟費用については刑事訴訟法一八一条一項但書を適用して被告人に負担させないこととする。
(量刑の事情)
本件各犯行は、判示「犯行に至る経緯等」記載のとおり、日本の歴史や在り方等に批判的な、いわゆる反日思想を抱いた被告人が、約二年間のうちに前後八回にわたり、国内有数の神社、仏閣、大学及び民間企業やその社長宅等に放火して炎上させたり、爆弾を設置して爆発させ、甚大な物的損害や多数の負傷者を出したりしたほか、同様の目的で爆弾を製造して所持したという事案である。その犯行の経緯、動機は、自己の思想、目的に反するものの糾弾、変革等を目指して、ペンキゲリラその他種々の批判的行動を行ったものの、所期の効果が得られなかったばかりか、社会から全く無視ないし黙殺されたため、より強力な闘争手段として、本件各犯行を行うに至ったものであり、自己の主義、主張を正当化し、その貫徹のためには、他人を犠牲にしてはばからないというやり方は、余りにも卑劣かつ独善的、自己中心的な所業であって、その動機、目的には何らの酌量の余地も見出すことができない。
しかも、被告人は、本件各犯行に先立って、爆弾の製造技術等を学習したり、放火地点や爆弾の設置場所、逃走経路等を十分に検討したりしたほか、多数グループによる別個の犯行とみせかけて捜査をかく乱すべく、爆弾の構造や犯行後に出す声明文等に偽装工作を施すなど、本件各犯行は、いずれも極めて強固な犯意と綿密、周到な準備のもとに敢行されたものであり、一個人による連続爆弾事件としては、他に類例をみないほどの大規模で計画的な犯行である。
また、犯行の態様をみると、平安神宮放火事件は、深夜人の就寝している社務所と接続する社殿に多量のガソリンを散布して放火、炎上させたものであり、各爆弾事件は、京都市内の中心に位置する夜間の神社本殿(梨木神社)、いまだ参拝客の残っている夕方の寺院(東本願寺)、大阪市内の繁華街にある白昼の雑居ビルのエレベーターホール(東急観光)、大学の講義中の教室前踊り場(東大法文一号館)、深夜の閑静な住宅街(三井アルミ社長宅)、多数の職員が勤務中の白昼の事務室前ロビー(神社本庁)に、それぞれ強力な時限爆弾を仕掛けて爆発させ、あるいは、初詣客で賑わう明治神宮境内で爆発させるため、隣人その他多数の居住する住宅密集地のアパート(寿荘)で密かに爆弾を製造し、所持したあげく、自室で誤爆させるなどしたというものであって、前記認定のとおりの本件各爆弾の種類、構造に照らせば、その破壊力は強大であり、いずれの犯行においても、財産的被害はもとより、人の生命、身体(但し、梨木神社爆破事件を除く。)に対する高度の危険性をはらんだ悪質、非道な無差別テロ事件である。
そして、本件各犯行により、全く無関係な一般市民を含む合計一二名の者に、加療約三日ないし二週間の傷害を負わせたうえ、一部の者にはその後数年にわたり肉体的、精神的苦痛を与え、また、生ぜしめた財産的損害も建造物等の復興、修復に要した費用のみで総額約一〇億円にものぼるほか、神社や仏閣においては、信仰の対象であるばかりでなく、歴史的・文化的価値の高い建築物等が多数焼失、損壊され、これら関係者の蒙った精神的衝撃の甚大さは推察に難くない。このような理不尽な犯行により物心両面にわたり深い痛手を受けながら、十分な慰謝の措置を講じられていない関係各被害者らが、被告人に対して厳罰を求めているのは至極当然というべきであり、しかも、本件各犯行は、いわゆる連続企業爆破事件その他多数の死傷者を出した爆弾事件が続発し、爆弾テロによる社会不安が醸成されていた時期に、これと呼応するかのように、京都、大阪、東京の各地で連続的かつ無差別的に敢行されたものであって、当時の一般市民に与えた衝撃や恐怖感、不安感等の社会的影響も十分に考慮する必要がある。
以上みてきたような、本件各犯行の経緯、動機、罪質、規模、態様、結果の重大性及び社会的影響等に鑑みると、被告人の犯情は誠に悪質であり、その刑事責任は極めて重大である。
しかしながら、他方、本件各爆破事件により現実に生じた人身被害は、前記のとおり、本件各爆弾の威力や使用方法の危険性の割には比較的軽微であったということができ、これが被告人の意図しえ結果とは認められないにせよ、なによりも幸いであったといえ、本件における大きな救いといってよい。また、本件各犯行に至るまでの過程をみると、被告人の生来のきまじめな性格と生硬な思考態度とが、方向を見誤らせ、爆弾闘争に踏み切らせていったとみられ、しかも、右闘争において、被告人は人の殺傷それ自体を主たる目的としていたわけではなく、その実効性はともかく、人身被害を少なくするため、それなりの配慮を払ったことも一応窺うことができ、それらの点で酌量の余地が無いとはいえない。
被告人は、判示「犯行に至る経緯等」の一一記載のとおり、寿荘誤爆事件を起こして逃走中、ライヒの思想やラジニーシズムに触れて自己の行ってきた反日武装闘争が誤りであったことを悟り、寿荘誤爆事件で逮捕された後は、反省の念や過去を清算したいとの考えから、本件各犯行のほぼ全容を早期に供述し、公判段階においても、本件各犯行を真しに反省悔悟して、被害者らに謝罪の意を表明するなどしているほか、傷害を負った被害者のうち一部の者との間で示談が成立し、その範囲内ではあるが、被害感情も宥和しており、被告人の現在における右のような心境及びこれまでの生活歴や前科前歴の内容等を考えれば、もはや再犯のおそれも懸念するに足りないものと認められる。
そして、本件各犯行の最終時点から起算しても、既に八年有半の歳月が経過し、そのうち五年余は捜査機関による大規模かつ厳重な追及下における潜伏生活で、相応の精神的制裁も受けてきたものと推察され、逮捕後の身柄拘束が三年を越え、現在では被告人自身の内省も一層深まり、多数の知人等から減刑嘆願がなされているほか、被告人の年齢、生育過程及び家庭の情況等被告人のために斟酌し得る事情も存在する。
したがって、以上諸般の情状を総合考慮して、主文のとおりの量刑をした次第である。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 宮嶋英世 裁判官 廣瀬健二 裁判官 石井浩)
<以下省略>